おかしなふたり 連載111〜120

第111回(2002.12.21.)
 言葉にならなかった。
 目の前で起こっている出来事が、想像の範囲内であったなら驚いて叫ぶことも出来たのであろう。
 だが、余りにも想像を越えたものだと、素直に“驚く”という感情にすら直結しない。
 ポカーンと観ているしかなかった。
 数多いこの事件の目撃者の1人は、その花嫁の真正面に座っていた。
 観た物をそのまま言葉にすると、ごく普通の男子校生が目の前で見る見る性転換してしまい、服がウェディングドレスに変わってしまった、となる。
 誰に話しても信じて貰えそうにない話だ。
 後から思い出すと、それが非常に大事な瞬間だったのだな、と気が付く瞬間がある。
 アメリカ人はケネディ大統領暗殺とアポロの月面着陸の報を聞いた時に何をしていたかは正確に記憶していると言われる。今ならさながら9・11テロであろうか。
 多くの乗客に・・・この車両に乗り合わせた・・・とっても、その瞬間が訪れていた。
 そして多くの目撃者が、“被害者”の美しさに打ちのめされていた。
 キラキラと陽光を浴びて反射する光沢の美しさ。そして何よりも折れそうに細く、華奢なプロポーションが大きく広がったスカートに映えている。
 独特のお化粧の甘い香りとドレスの香気、しゅるしゅるという衣擦れの音が、「電車の中」という日常に飛び込んだ花嫁という異空間を際立たせていた。


第112回(2002.12.22.)
 歩(あゆみ)は、回らない脳を必至にフル回転させて対策を弾き出そうと懸命だった。
 とにかく、電車を降りなくちゃあしょうが無いだろう。
 そこまではいい。
 でも、この格好で走れるかな?
 今だってロクに動けないのである。
 スカートの生地が多すぎて、真中で身体を一回転させてもスカートがそのまま残っているのでカーテンをねじったみたいにしかならないのである。
 本体が動いてもスカートが動くのはかなり後になってしまう。
 それこそでかい雑巾で床を掃除しているみたいなものだ。
 ・・・まあその、こちらは別にドレスが汚れる事を気にしている訳じゃないんだけども・・・
 そもそもこの人ごみの中をこんなゾロッとした格好で歩ける筈も無い。
 平日とは言え大きな駅の午後、まだ太陽の高い時間帯である。
 ごくごく普通の格好をしていても他人と接触するのが避けられないのである。こんなスカートを引きずったままじゃあ、踏まれて一歩も動けなくなる公算のほうが高い。
 ・・・持つしか・・・無いよな。
 周囲の視線は最早車両の真中でモデルの様にくるくると回ったりスカートを撫でつけたりと珍しそうに自分の身体をいじり回す花嫁に何の遠慮もなく集中していた。


第113回(2002.12.23.)
 もう次の駅に付くまでそれほど時間が無い。
 まずはとにかく全力疾走で電車から脱出する。
 大きな駅ではあるが、それほど混んでいないだろう。
 ・・・多分。
 そして・・・そしてどうしよう。
 トイレにでも駆け込むか?
 どっちの?
 てゆーかあの狭い個室に入りきるんだろうか?
 それほどのスカートの量だった。
 そもそも、いくら土足のところを引きずって歩くことを前提に考えられているドレスとは言え、トイレの中のあの床に接地させるのは“健全な男子校生”である歩(あゆみ)にも抵抗があった。
 いや、“抵抗”とか言っている場合では無いんだが。
 歩(あゆみ)は、かがむと大きく揺らぐ透き通ったヴェールをつるつるの手袋に覆われた手で撥ね退けながらスカートを掴んでみた。
 ・・・胸の重さの中心部分が移動する・・・。
 なるべく指を目一杯広げてスカートを鷲掴みにしようとするのだが、なかなか上手く行かない。


第114回(2002.12.24.)
 お互いにつるつるの表面のもの同士なので滑ってしまうこともあるのだが、そのスカート自体に問題があった。
 一枚の生地だけで出来ている訳では無いのである。
 恐らく数枚以上の生地が重なり合ってスカートになっているのだ。
 だから幾ら掴もうとしても表面の2〜3枚は掴めてもその下は野放しになってしまい、上手くスカート自体を持ち上げることが出来ない。
 しかも悪い事に、ウェディングドレスなどは「パニエ」と言ってスカートを大きく広げて見せるための一種の“下着”が入っているのである。
 ゴワゴワの、“網戸”みたいなチュールが間に大きく入り込んでいる。その下にまた肌着が縫い付けられたりしているのだから、それを一緒くたに「鷲掴み」など到底出来た相談では無かったのだ。
 ざざっ!ざざっ!と衣擦れの音を響かせながら自分の方に向かってスカートを手繰り寄せる花嫁。目の前には電車のドアがある。
 スタートダッシュをかまそうというのは誰の目にも明らかだった。
 あちこちでかしゃかしゃヘンな音がする。
 それはカメラつき携帯電話の音だった。
 この光景を記録しないで何とするか。
 それはごく当たり前の好奇心の発露だった。
 ぐいぐいとスカートを手繰り寄せ、遂には腕で大きく抱え込む様にする歩(あゆみ)。
 ・・・これだ。
 両手でそれをやってみる。
 これなら何とかなる。
 とは言う物の、この華奢な身体で、しかもこれまで履いた事の無いハイヒールでスカートを抱えながらどれだけ走れるだろうか?
 こうして揺れる車内で立っていることすら難しいというのに。


第115回(2002.12.25.)
 不安要素は尽きない。
 だが、やるしかなかった。
 ふとスカートを両手に抱えた状態で後ろを振り返る。
 ・・・そこには電車の床一面に広がったスカートの裾・・・トレーンと言う・・・があった。
 ・・・何てこった・・・。身体の回りのスカートはなんとかなっても、その尻尾に関してはどうにもならない。
 ここを思っきり踏んづけられたりしたら下手をすると思いっきり転倒してしまう。
 テレビの映像なんかで見るぶんには、長く長く引きずるウェディングドレスのスカートは非常に美しいものだったが、今の歩(あゆみ)には災いでしか無かった。
 ・・・仕方ない。これも抱え込むしか無いか。
 両手に抱えたスカートを離した。
 ふぁさ・・・とスカートが床に舞い降りる。
 またもその美しいスカートのプロポーションが復活する。
 半ば、“おお”という声が漏れた様に聞こえた。
 もうスカートを手にとって操るのは嫌だ。
 歩(あゆみ)は身体を正面に向けたまま、少しづつ少しづつその長いトレーンを手繰り寄せていく。
 その時だった。


第116回(2002.12.26.)
 歩(あゆみ)が視線を注いでいたそのトレーンの先に靴が出現した。
 えっ!?と思っている内に、ひょいとそのスカートが持ち上げられた。
「あっ!」
 口紅の乗ったその小さな唇が驚きに広がる。
 見知らぬ女性だった。
 しゅるしゅると床に広がったスカートをかき集めるようにしてくれる。
「あ、あの・・・」
 そして持ち上げつつ歩(あゆみ)の方に差し出してくる。
「はい、どうぞ」
 そうか・・・花嫁に変わり果てた歩(あゆみ)は合点した。
 困り果ててあれこれやっている花嫁に同情して助けに来てくれたんだ。きっと。
「あ、その・・・スイマセン」
「大変ですね」
「はあ・・・」
 な、何を普通の会話してるんだ!
 とは言え助かるのは確かだ。
 考えてみれば歩(あゆみ)は女になった状態で聡(さとり)以外と話すのはこれが初めてだった。
 一応母親に見られた事はあったけども。
 スカートの後方部分、トレーンの塊・・・もう“塊”と呼ぶしかないのだ・・・を受け取る。
 これはもう表面がつるつるのものをまとめたものなのだから滑りやすさ、扱いにくさは一級品である。しかもそれを扱う方の手もつるつるの表面に覆われてしまっている。それが自分の背中側、腰の部分から生えているのだから、難度の高さは筆舌に尽くしがたい。


第117回(2002.12.27.)
「あ、有難うございます」
 間の抜けた受け答えみたいだけど、そう言うしかない。
 周囲の乗客は、注目を一身に集めているターゲットと接触している勇気のある女を固唾を飲んで見守っていた。
 トレーンの束を鷲掴みにする花嫁歩(あゆみ)。
 そのまままたかがみ込んでスカートを抱えようとする。
 途端に手のひらに包み込んでいたトレーンの束が開いて落下する。
「ああっ!」
 小さく悲鳴をあげてしまう哀れな花嫁。
「あ、いいですよ」
 その女性はしゃがみこんでまたトレーンをまとめてくれる。
「あ、有難うございます・・・」
 困っている時の助けはそうでない時の何倍も有難い。
 化粧が滲むのも構わず歩(あゆみ)は涙が出そうなほど嬉しかった。
「大変ですね」
 そう言いながら、今度はトレーンのみならず、スカートも抱えやすいように持ち上げてくれる。
 それを、ぷっくり膨らんだ肩と細いつるつるの腕で抱え込む花嫁。
 反対側も同じようにする。
 ・・・これで何とか走れそうだ。
 とにかく、走るために前に出す足にスカートが当たってはどうにもならない。
 よくコントで芸人がドレスを着て思いっきりこけているが、それと同じで自分のスカートにつまずいて転倒、というこれ以上無い間抜けな光景が展開されてしまう。
 それだけは避けなければ。


第118回(2002.12.28.)
 実はウェディングドレス姿で無くても走れるかどうか自信が無かった。それは何よりこのハイヒールのせいである。
 スカートを無理矢理持ち上げているお陰で、今の歩(あゆみ)は正面から見ると、スカートの下の暗い洞窟からその白いストッキングに染まった脚が見えている“はしたない”スタイルだった。
 だが、背に腹は変えられない。
 “楚々として”すり足で歩く為に作られた様な衣装でこんなことになるとは思ってもいなかった。
「一緒に持って走りましょうか?」
 その女性が声を掛けてきた。
「あ、いいです」
 反射的に答えていた。
 その時に初めてその顔を見る花嫁歩(あゆみ)。
 髪の長い落ち着いた美人だった。
 大人だと思ったけど、私服だから大人びて見えるのかも知れない。歩(あゆみ)には自分たちと同年代の少女に見えた。
「・・・罰ゲームか何かなの?」
 突然“タメ口”になってちょっとドキッ!とする歩(あゆみ)。
 別にその・・・女性が苦手って訳じゃない。毎日女の家族・・・妹と暮らしている訳だし、通っているのも共学校だ。女たらしでは断じて無いけど、クラスの女の子と話すのは苦手じゃない。
 自慢するわけじゃないけど中学の時には告白された事もあるんだ。
 ・・・結局曖昧なままだったけど。
「いや、その・・・」
 照れて下を向いてしまう花嫁。
 心臓がバクバク言っている。
 な、何を動揺してるんだ?
 それは衆人環視の中、ウェディングドレス姿にされた羞恥の動悸とは明らかに違うものだった。


第119回(2002.12.29.)
 そうだ・・・と思った。
 この女の人は、僕のことを女だと思ってるんだ。
 まあ、それはそうだろう。
 こんな見事な花嫁がまさか男だとは思うまい。
 歩(あゆみ)にとって「女として」他人に話し掛けられるのは初めての体験だったのだ。
 そうか・・・それが原因か・・・。
 しかも、男に誘われたとかでは無い。
 女の人に、言ってみれば“仲間”として声を掛けられたのである。
 その時の、何とも言えない“飾らない”そのスタンスにドキッ!としたに違いない。
 ちょっぴり罪悪感が芽生えた。
 なんというか正体がばれない状態で女子更衣室に入り込み、目の前で脱がれた様な気分であった。
「そ、そう・・・かな」
 その女性はにっこりした。
 心臓が貫かれた。
「大変ね」
 面白そうに言う。
 その笑顔にとろけそうだった。
 一目惚れだった。
 しかし、こんな奇天烈な状況下では進展もクソもあったものではない。
 呪わしかった。
 だが、こんな事態でもない限り声も掛けられなかった訳で・・・。
 そういう意味では複雑だった。
「付くわよ」
 花嫁は正面に振り仰いだ。


第120回(2002.12.30.)
 その日は平凡な平日の午後だった。
 少なくともその瞬間まではそう思っていた。
 通っている専門学校ももう今日の分の授業は終わったし・・・。
 暇だなあ。どこか遊びに行くかなあ・・・
 電車が駅に侵入してくる。
 田舎にいた頃は電車に乗ること自体が珍しかったもんだが、こうして毎日乗っていると特に何とも感じなくなっていた。
 自転車で移動することが多い田舎の学生としては、「移動に金が掛かる」という都会の生活というのは実に違和感があった。
 だからと言って別にどうなるものでもないのだが。
 入ってきた電車が目の前で減速を開始する。
 何となくそれを眺めている。
 ・・・ふん、まあまあすいているな、と思った。
 電車が来れば確認するのはまずそれだ。
 座れるかどうか、これが大事なのである。
 中にいる人間の人相が辛うじて確認出来るくらいのスピードになった時のことだった。
 ・・・信じられないものがあった。
 しばらく時が止まった。
 止まったと言ってもほんの数瞬のことである。
 ・・・何だ今のは?
 知識としてはそれは頭の中にある。
 恐らく「これは何でしょう?」と目の前に差し出されれば容易に答えることが出来るに違いない。
 ・・・だが、それはこんな所にあるはずのものでは無かった。
 いま、確かにいた。
 電車の中にウェディングドレス姿の花嫁が・・・。