おかしなふたり 連載121〜130

第131回(2003.1.10.(金))
 駅構内は意外に光が入らない。
 その出口から入ってくる光は外が見えないほどのものに見えた。
 タクシーだ。とにかくタクシーに乗っちゃえばいいんだ。
 歩(あゆみ)はあの女性に感謝していた。咄嗟の機転で、徹頭徹尾助けてくれた。
 今ごろ駅の中は大騒ぎなのかな・・・。
 そして・・・今度は下り階段が待っていた。
 もう・・・急ぐのは止めよう。
 見たところ数メートルはありそうな階段である。
 転げ落ちたら只では住みそうに無い。
 “転ばない”ことが第一である。
 駅に入ってくる人は十数人が常に歩いている。
 殆どの人は見るとぎょっ!と驚き、目を逸らす。
 もう構ってはいられない。
 スカートの量が膨大なところに持ってきて、前方に抱きかかえるように持っているから足元が全く見えない。
 一歩一歩踏みしめるように降りて行く。
 ご丁寧な事に外に通じる階段にはエスカレーターが付いていない。
 まあ、付いていても使ったかどうか分からないけど。
 最下段まで降りきるまでの時間は長く感じられた。
 だが、電車の中で到着を待っている間に比べれば大した物では無い。
 お札に口紅が付かないように浮かせて、歯でくわえているので、どうしてもつばがこぼれてくる。
 それが余計に焦りを誘発した。
 つばかこぼれて折角のドレスを汚したりしたら大変だ・・・って何を心配しているのか。
 遂に最下段に到着した。


第132回(2003.1.11.(土))
 歩(あゆみ)とて首都圏に住む男子校生である。あちこちの駅に降りた事くらいある。
 地方に住んでいる人は、首都圏くらいになるとどこの駅を降りてもそこには巨大なビルの林立する“都会”や、量販店の建ち並ぶ“繁華街”を思い浮かべるかもしれない。
 だが、決してそんな事は無い。
 かなり大き目の、急行や特急が停まる様な駅であったとしても住宅街の真中に停車する場合も多いのである。
 この駅はまさにそれだった。
 建設途中みたいな屋根のついた階段を降りきって前方を見据えた花嫁は呆然とした。
 ほんの数メートルだけ続くコンクリートの先には確かに道路があることはある。
 だが、それは先ほどの女性が教えてくれた「タクシー乗り場」というイメージからかけ離れた物でしかなかったのだ。
 まずその“道路にたどり着くまでの数メートルの道”がくせものである。
 無断駐車の自転車がずらりと並び、そこをロープで区切ってある。そのコンクリートも何度もはがしては改修した後がモロ見えである。
 その道路にしてからが、ぎりぎり車がすれ違うことが出来る程度の広さしかない。すぐそばに信号があるのか、その道路にある車は凍りついたように動かない。そこに加えて持ってきてでかいバスなんて停まっていたりするのだ。
 本当に泣きそうだった。
 当然ながら純白のウェディングドレスに身を包んだ美しい花嫁になってしまっている歩(あゆみ)が想像していた「タクシー乗り場」とは、巨大なロータリーにずらりと後続のタクシーが控え、すぐに飛び乗って走り出せるような物だったのだ!


第133回(2003.1.12.(日))
 そうでもこうでもまた駅に舞い戻るわけにはいかないのだ。
 とにかくドレスのスカートを抱きかかえたまま“花嫁”歩(あゆみ)は歩き始めた。こんなところで手を離せばこの長い長いドレスのスカートは間違いなくギザギザの地面を引きずって歩くことになる。
 溜め息の出そうなつやつやのスカートの裏地はささくれ立ってしまうだろう。いや、とにかく歩きにくいからなんだ。決してドレスを大事にしてるからって訳じゃないぞ!
 周囲の注目が集まっているのが分かる。その視線が純白のドレスを通じて痛い。
 なんて狭い道路だろう。
 そこに“寿司詰め”になった車がみんなで立ち往生している。
 ど、どこに一体「タクシー乗り場」が?
 もう食わば皿までである。思い切ってその花嫁は警備員らしいおじさんに尋ねる。
「タクシー乗り場はどこですか?」
 可愛らしい声だった。・・・声まで女になってしまっているのは承知だったが、まるで声色まで結婚式当日の楚々とした花嫁モードみたいだった・・・。
 警備員のおじさんは見たところ50代半ばというところか。大いに動揺しているのが分かる。
 ヘンな話だったが、身体まで女になっていて良かった。
 これが花嫁姿の若い女だからこの程度で済んでいるのであって、女装少年だったら・・・。って元々この能力のせいじゃないか!
「あ、あの・・・そこだよ」
 努めて平静を装ってそのおじさんはついさっき右往左往していた場所を指差してくれた。


第134回(2003.1.13.(月))
「あ・・・」
 よく見るとそこには確かに「タクシー乗り場」の看板があるでは無いか。・・・問題は肝腎のタクシーの姿なんて影も形も見えないことである。
「今はいないけどね。しばらくしたら来るよ」
 し、しばらくしたら?
 確かにこんなに狭い道路では常にここにタクシーが停まっていたりすれば全く車が通れないだろう。それにしても・・・。
「あ、ありがとうございます!」
 とは言え、この道路近辺それ自体がもう“繁華街”みたいなものだ。
 狭い歩道をすれ違うのも困難なほどの人が行き来している。
 その中でウェディングドレスが目立つまいことか!
 とはいえ、ここでタクシーを駆る以上の選択肢があるとは到底思えない。
 初めて降り立つ駅である。ここから歩いて帰ることなど全く考えられない。電車に戻ることも駄目だ。ならここでタクシーを待つしか無いだろう。
 その「タクシー乗り場」と書かれている場所から少し下がった所で待った。
 とにかく自転車の数が凄い。こちらの道はその奥にある銀行の現金引き出し機に繋がる物なのだが、不便この上ない。無計画都市ならではである。
 多くの乗用車を通して道の向こう側からギャラリーがこちらを見ている。
 現実感が喪失しそうだった。


第135回(2003.1.14.(火))
 退屈だった。
 タクシー会社に入社したのがこの春だ。
 もうすぐ学生なら夏休みに入るこの時期、まだまだ経験不足だった。
 山口は新人タクシードライバーである。
 小さい頃に抱いたタクシーの運転手のイメージというのは・・・どうにもオッサンくさいものだった。
 というのも、子供がタクシーに載る機会といえば親戚の家に行ったときくらいしか無いからだ。
 だが、就職して見ると、当然だが自分と同年代の人間だって大勢いる。そして・・・もう1つのイメージだった「道を良く知っている」というイメージもまた覆されたのだ。
 アメリカは「自宅から○ブロックはなれた△」という言い方が定着するほど実に計画的に街が建設されている。日本でも仙台の様に戦後に都市計画に基いて復興された都市にはそうした整然とした配置があるが、東京や大阪などは全く絶望的なほどの無計画都市である。
 加えてこの神奈川のあたりは土地の高低差も激しく、住宅街などはさながら迷路のようなのだ。
 そして、タクシーには最も必要そうな設備である「カーナビゲーション」が搭載されていない。


第136回(2003.1.15.(水))
 一度も行った事の無い土地に対しては必要不可欠であろうこの装備だが、タクシー会社同士で「縄張り」が決まっているこの業界では、自分が受け持つ地域については道くらいは完全に暗記しろ、というのが至上命題だったのだ。
 それももっともな話で、確かにどれくらいの電力を消費するのか分からないカーナビをタクシーの運転手が一生懸命見ていたのではお客としても不安だろう。
 実は一部のカーナビはテレビを受信する事が出来るのだ。中にはDVDが見られる、なんてのもある。「高級タクシ―」には一部そういう設備があるものもあるらしいのだが、山口には縁遠い話だった。
 運転手が仕事そっちのけでそんなもの見ていたのでは商売あがったりである。
 無線がひっきりなしに入るのでラジオも熱心に聞くわけにもいかず、自慢の音楽CDコレクションも用無しだ。そもそも気楽にツーリングを楽しんでいる訳では無いのである。仕事だ仕事。
 よって山口は最近始めたサバイバルゲームの知識を深めるためにエアガンの専門書を車内に持ち込んで信号待ちの間に読む程度だった。
 いつものタクシー乗り場に近付いた。
 ここって苦手なんだよな・・・。
 道が狭いのでいつもせかされている様な気になるのだ。実際、バスなんかが後ろから押してきたらすぐに退散しなくてはならない。
 信号に押されて、カメみたいに遅い歩みでそこに駆けつけると・・・。
 山口は信じられないものを見た。
 それは言葉にして見ると陳腐以外の何者でもなかった。
 タクシーに駆け寄ってきたのは純白のウェディングドレスに身を包んだ花嫁だったのだ!


第137回(2003.1.16.(木))
 待望の使者が来た。
 地味な塗装のタクシーである。
 その重さで相当に持つ姿勢が崩れ、手から滑り落ちそうなスカートを何とかまとめて走り出すブライダル歩(あゆみ)。
 ごくまれに少しづつしか動かない車の列に後押しされるようにそのタクシーは目の前にやってきた。
 きっと運転手にもこの花嫁姿ははっきりと見えたはずだ。
 でもきっと乗車拒否とからはされないだろう。物凄く汚い格好のホームレスとか、雨の中泥まみれになった酔っ払いとかが乗車拒否されたって話は聞いた事があったけど、・・・花嫁はどうなんだろう?分からない。
 車道近くまで出てきた花嫁に視線が集中する。
 ええい!構う物か!
 両手にスカートを抱えたままでは手を挙げられない。もういいや!
 目の前2〜3メートルまで迫ってきたタクシーに、ふぁさ・・・とドレスが地面に着地するのも構わずに手を挙げる歩(あゆみ)。
 腕が窮屈である。
 上にあげると、ぎしり、とあちこちが引っ張られる。
 考えてみれば確かにそうだろう。そのイメージだけが余りに浸透しているのだが、元は儀礼用の装飾みたいなものだ。快適なアクションなど保証されている訳が無い。ましてやこんな長袖タイプとなれば下手をするとひじを曲げるのも何かと窮屈なのである。
 道が本の少しだけくぼんでいる。一応「タクシー乗り場」ってことなんだろう。
 そこに乗り付けてきてくれた。
 後ろのドアが開いた。


第138回(2003.1.17.(金))
 大丈夫かな・・・って事も無いけど・・・。とにかく客は客だ、と山口は思った。

 天の助けだった。
 とにかく乗り込まなきゃ。
 ・・・でもどうやって?
 歩(あゆみ)は困った。スカートの形を形成する軽い“骨組み”すら入っているこの格好である。正面からのろうとしてもその膨大な量のスカートにつまずいてしまう。
 その瞬間にひらめいた。
 突然ヴェールをはためかせてくるりと後ろを向く。
 そこには大勢のギャラリーがいるが、気にせずそのままお尻を先にタクシーのソファにのせた。
 歩(あゆみ)はスカートで座った事自体はある。毎日の様に都内の女子高生の制服をとっかえひっかえ着せられてきたのだから。だが、これほど分厚いスカートで腰をついたのはこれが初めてだった。
 ズボンなら、生地のどの部分がお知りを受け止めて接地するのかが明確に考えられている。だが、このドレスって奴はこうしてお知りをついても、しゅるしゅると滑りまくり、実に落ち着かない。
 ともあれ、お尻に続いて足を揃えてお尻を基点に回転させるように車内に入れる。
 実はこれ、「着物」を来たときの自動車への乗車方法なのだが、歩(あゆみ)は無意識のうちにこれを実行した。機転のなせる技だった。
 そのまま、つるつるの手袋でシートと助手席の椅子の肩を掴みながらずりずりとお尻を引きずって身体を車内の奥のほうに移動させる。


第139回(2003.1.18.(土))
 それでも当然ながらドレスは車内に入りきらない。
 お互いにつるつる同士なので大変に難儀したが、とにかくドレスの“尻尾”にあたるトレーンを鷲掴みにして漁師の様に必死に手前に手繰り寄せる花嫁。
 ここまでトレーンの長いドレスは珍しく、当然ながらかなりの高級品である。広告によく載っている「レンタル:40万円」とかの代物と考えて差し支えない。本物の花嫁さんであっても滅多に着られる代物ではないのである。それを男子校生である歩(あゆみ)が着ている・・・。実に皮肉な話だった。
 やっと最後の最後までドレスのトレーンを回収することに成功する。
 もう車内はドレスの生地の海の様だった。
 歩(あゆみ)が漂わせるお化粧の甘い香りと、ドレスの生地独特の匂いでしゃないが満たされる。
「もういいですか?」
 運転手が聞いた。
 それは“ドレスを完全に車内に格納しましたね?”という問いに他ならなかった。
「はい!」
 即答する。
 この問いにほんの少しだけ安堵する歩(あゆみ)だった。
 答えると同時にくわえていた一万円札がスカートの膝の上に落下する。
 こちらの衣装の挙動に気を遣ってくれるということは・・・きっとこういう格好の人を乗せる事になれている人に違いない!
 勝手に合点した。ウェディングドレスでタクシーに乗るというのはどういう上京なのかという気もするが、そんなことを気にしている場合では無い。
 自動ドアが閉まった。


第140回(2003.1.19.(日))
「〜お願いします」
 歩(あゆみ)は自宅近くの地名を言った。
 とにかく帰るしかない。
 ちょっと考えたただけでもリスクはてんこもりである。
 この時間帯には専業主婦である母親がいる公算が大である。
 母親にこんな格好を見られてどうすればいいのか。
 まあ、普通に考えれば変わり果てすぎちゃったこんな姿を見てすぐに息子だと気が付いたらそっちの方が凄いが。
 何しろ下半身のスカート部分と違って、上半身はぴっちりと肌に張り付いてそのメリハリのある体形を露にしているのである。この形のいい乳房と蜂の様にくびれたウェストはどこから見ても女である。こんな女装は不可能だ。
 それでも純白のウェディングドレスが突然乱入してくれば平和な家庭はパニック状態になることは間違いあるまい。
 そもそも誰なんだ?という話になるだろう。
 そして・・・恐ろしい考えだが、実は自宅に帰ったからといってすぐに元の姿に戻れるという保証はどこにも無いのである。
 この、お互いを性転換&異性装できるという能力は我々兄妹に備わった物だが、お互いに相手にしかその能力を及ぼす事が出来ない。もしも自宅に妹の聡(さとり)がいなければ会えるまでこの格好のままということになる!
 それでも何でもこの格好のまま街中に、いや自宅以外にいるよりはずっとましだった。母親に見つかっても・・・という事も無いけどともかく自宅にかえっちまえばなんとかして・・・なんとかなるさ!
 次の瞬間、イヤリングに引っ張られるその耳に信じられない言葉が飛び込んできた。
「あの・・・すいません。新人なんで道が分からないんです」