TS関係のオススメ本11
*アップロードする際に在庫を確認してから行ってはいますが、なにぶん古い本が多い為、時間が経過することで在庫切れになる場合もございますのでご了承下さい。 真城 悠 |
「おと×まほ 2」 (2007年・白瀬 修・ソフトバンククリエイティブ) |
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おと×まほ 2 (GA文庫 し 2-2) (GA文庫 し 2-2) |
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10-06 「おと×まほ」(レビューはこちら) |
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少し前に「放課後保健室」(レビューはこちら)でやったんですが、同じシリーズの続巻を純粋に別のレビューにするのは「桜ish ―推定魔法少女 」(レビューはこちら)以来です。 ライトノベルの世界にTS要素を持つ作品が溢れ始めたのが明らかに去年(2007・平成19年)あたりから。 でもってライトノベルと言えば「同じシリーズが大量に出版される」ものなんですよ。ええ。 所謂(いわゆる)「ライトノベル」の定義ってのは今もってはっきりしないんですが、この「続巻が大量に発売される」のは明確な特徴の一つでしょう。 少しヒットした作品ともなればふと気が付くと10巻〜20巻くらいは出ていたりします。いやマジで。 次から次に沢山の巻数が出続けることで、最新刊のみを目にした人も遡(さかのぼ)って読む人も出てきて、結果として過去の作品にも増刷が掛かり…という「良循環」を形成する分けです。 この「続巻商売」めいたものはライトノベル以外ですと「架空戦記」シリーズなどに顕著で、明らかに続き物として書かれているのにシリーズ最初の巻に「第1巻」と明記されていないシリーズが結構あります。 何故こんなことになるかというと、「売れたら2巻以降を出版する」という体制で臨むからなんですね。 出来たら続巻が出た時点で第二版から「第1巻」表記をして欲しいんだけどなあ…と探すのに苦労した思い出のある人間としては思ったりします。 あ、そういえばこの「おと×まほ」も第1巻には「1」表記が無いですね。 そんなこんなで、「おと×まほ」にもめでたく第2巻が発売されました。 現在続いているTSシリーズは幾つかあって、どれも個性的なのがポイント。 先陣を切った形になる「ぼくのご主人様!?」(レビューはこちら)はかつてないユニークな設定が売り物。挿絵の絵柄も可愛らしいし、メイドという設定も絶妙。 「けんぷファー」(レビューはこちら)シリーズは当ホームページでも大人気。パンクな地の文によるロックンロールTS。順調に続巻が出ているのにあんまり紹介出来なくて申し訳ないです。 でもって思わぬダークホースが「桜ish ―推定魔法少女 」。「新世紀エヴァンゲリオン」の系譜を継ぐセカイ系TS。個人的にはもっとも注目したい力作。 そしてポルノからの進出という異色作品が「AKUMAで少女」(レビューはこちら)。18禁コンテンツを含まない作品としてはトップクラスの「肉体派」。 さて、そんな中にあって「おと×まほ」はどの様な作品なのでしょうか? 実はある意味一番の問題作(?)。 というのも、一応は「少年魔法少女もの」ではあるものの、主人公の白姫彼方(しろひめ・かなた)くんは「変身」しても身体が女性のものになる訳でもなく、女装する必要も無い(としか思えない)のに女装しているんですね。 「桜ish ―推定魔法少女 」みたいに変身してのミッションが世界の存亡に直結する訳でもなく、どこまでも能天気。 明らかに「お約束」を大前提に進む「おふざけ感覚」は生真面目な読者は怒っちゃうかも?という作品。クールに突き放す「けんぷファー」シリーズとも、どこまでも真面目で真摯な「桜ish ―推定魔法少女 」とも違う作風…と言えば察していただけるかと。 カバー裏のキャッチコピーは「ドタバタ魔法少女コメディ」とありますが、実際そんな感じ。つーか魔法“少女”ってのは看板に偽りありじゃないかと思うんですが。せいぜい「魔法少女“役”」というところです。 当ホームページにおいては続巻のレビューの際にも一応前巻を読んでいなくても大丈夫なように構成していますが、まずは第1巻のレビューをお読みになってからこの続きをお読みいただきます様によろしくお願いいたします。 さて、本編。 いきなり「ノイズ」と戦うグレイス・チャペルの格好いい場面からスタート。語尾に「〜ですの」がつくキャラなのでのっけから試される読者(爆)。 ここで設定の再確認。 なんと、彼方くんを始めとしたこの物語内における「魔法少女」(チューナー)たちは「ノイズ」を倒すことで「報酬」を得ている、ということが明記されます。 しかもノイズの「レベル」によってその額が違う…というのですから相変わらず切迫感には乏しいですね(^^;;。 というか職業魔法少女ってことですね。 これは相当にドライな設定です。 ただ、「襲ってくる怪物と半ば共存している世界」ってのはありはありです。 そうなると、主人公たちが「性急に世界の存亡を揺るがす訳では無い」怪物と戦う理由をいかに設定し、使って見せるかが問われることになると思います。 相変わらず「契約に従って戦わないとペナルティとして女の子にされてしまう」という「ためにする」設定と、女装姿の写真でいじられる彼方くん…という展開。 レギュラーキャラ(?)ということになるであろうグレイス・チャペルの奮戦ぶりとその過去の生い立ちを紹介したところで何と新キャラ登場。 |
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この新キャラの名前は幾瀬依(いくせ・より)。落ち着きのある大人の女性チューナー。 …と、思いきやこの人も「可愛い女の子好きの女の子」という「マンガ的にエキセントリックな特徴を持つ典型的なライトノベルの登場人物」だったのでした。 そんなこんなで抱きつかれたり撫でまわされたりして愛玩される彼方くん。 このお話って儀礼的に「変身」行程は踏むけども、身体は男の子のままなので、純粋に「可愛い男の子」として愛でてもらえている訳で、正直読みながら「これはショタコン方面の需要も満たそうとしているのかな?」と思ってしまいました(爆)。 だって「幼い体型」とかそういう描写ばっかりなだもん。 ちなみにここでちょっと脱線。 とあるインターネットラジオで声優の清水愛(しみず・あい)さんがこんなコメントをしていたことがありました。 ちなみに清水さんは「萌え萌えジャパン」というオタク方面のルポルタージュで単独インタビューにも答えている人気アイドル声優のお一人ですが、結構思想的に深い(?)ものをお持ちの「侮れないパーソナリティ」です。 |
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その清水さんがラジオ番組のこんな読者投稿を受けていました。 曰く「女の子同士のタッチし合いなどを見ていて羨ましいと思った」という男性読者の声を紹介していたのですが、ここで清水さんは「これは同性同士のコミュニケーション云々ではなくて、純粋に『女の子を触るのが気持ちいい』ってことだよ」と喝破したのです。 これは鋭い指摘です。 だって、男同士でもそりゃボディタッチ含めたコミュニケーションは存在しますが、それは全く意味が違います。 女の子同士が戯れでおっぱいにタッチしたりお尻を撫であったりする様には男同士は、股間を掴んだりは…あんまりしない訳です。ま、中にはしている人もいるかも知れませんが(ウホッ)。 何故男同士だと美しくない場面が、女の子同士だと美しいか?と言えば、それはもう純粋に「女の子」という存在そのものが美しいからに他なりません(言い切った)。 ちょっと話が脱線しますが。 アメリカ合衆国における「ポリティカル・コレクトネス」(政治的正しさ)論争には根深いものがあります。例えば「黒人」を「ブラック・ピープル」と呼ばずに「アフリカン・アメリカン」と言うとか、「チェアマン」(司会者)に「マン」という「男性を表す接尾語が付いているのはおかしい」として「チェアパーソン」に変えさせる、とかそういうのです。 その中に「映画の登場人物には人種を均等に配置しなくてはならない」とか「自律した意思をもった女性キャラを描かなくてはならない」というのがあったりします。 人種の問題はともかくも、女性キャラ云々ってのは日本人には良く分からないところです。 そして、この様にわざわざ「〜しなくてはならない」などという決まりがあるということは、如何(いか)に普段それが守られていないかという証拠でもあります。 わが国のアニメ・漫画においては例え「男性視聴者」をメインターゲットに製作されている作品であろうとも女性・女の子が主役になることは全く珍しくありません。 真面目に数えた事が無いので分かりませんが、下手すると新規に放送がスタートするアニメなんて「主役が女性」率は半数に迫るくらいの勢いなんじゃ?と思うほど。 「萌え」系のアニメを話題にすると表情が曇る御仁もかのスタジオジブリのアニメが「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「千と千尋の神隠し」など、女性どころか「少女」とか「幼女」を主人公にしたものばかりであることを指摘すればお分かり頂けるでしょう。 |
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なので日本ではそもそも「萌え」系の作品が受け入れられる土壌がある訳です。「魔法のプリンセス ミンキーモモ」などは当初から「大きなお友達」をある程度視野にいれて製作されていた訳ですが、こういう「特殊なファン」だけではなく、例えば「機動警察パトレイバー」という「リアルロボット」アニメの主人公は泉野明(いずみ・のあ)という女の子であり、しかもそれに特別の理由がありません。 特にだって野明は誰かと恋愛関係になる訳でもないし…「どうせなら女の子がいいよね」くらいの。「女主人公」について書き始めると長くなるのでまた別項で。 |
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かの「ローゼン麻生閣下」のインタビューを掲載することに成功したサブカル雑誌「メカビ」では海外のアニメバイヤーの日本アニメ観や海外事情をうかがわせるインタビューが掲載されているのですが、非常に興味深いのは大半の読者・視聴者は基本的に作品に求めるのがマッチョで力強い男の主人公である…とのことです。 それこそシュワルツェネガーとかスタローンみたいな。 女子供が主役を張るみたいな軟弱なお話なんぞ馬鹿馬鹿しくて観ていられない訳ですよ。ええ。 |
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わが国のアニメ・漫画を始めとしたフィクションの世界では「女性上位」方針もちょっと行き着くところまで行っている感はあります。 「ガンダムSEED」シリーズで主人公たちの乗る軍艦の艦長はどちらも女性という設定です。これはアメリカあたり…いや、日本以外の国ではちょっと考えにくい事態でしょう。 こう書くと女性差別みたいですが、決してそんなことはありません。 軍艦の艦長ってのはひとつ舵取りを間違えれば乗員全員が死んでしまいます。なので、大変な責任が必要。あの感情的も甚(はなは)だしいマリュー艦長に命を預けられますか? 恐らく女性にしてすらが、あんな小娘同然の「司令官」よりも分別のある50男を選ぶでしょう。これは仕方が無いことです。 |
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ともあれ、観客が求めるのが「逞(たくま)しい男」である以上、どうしてもそういう時代に作られたフィクションの中に於いては女性は添え物にならざるを得ません。 古典ホラーにおいては怪物に追いかけられてきゃーきゃー言っているだけの女優のことは「スクリーム・クイーン」と呼んで揶揄されていました。ここでいう「スクリーム」とは「悲鳴・絶叫」の意味。 なので、それこそ「スター・ウォーズ」のレイア姫みたいに「男まさり」のヒロインが出てくるとそれだけで話題になったりするんですね。 そして、「女主人公」となると、それはもう「特別な事」ですから「そうである理由」が必要になります。それこそ女性向け映画であるとか何とか。 今でこそ映画「エイリアン」はシガニー・ウィーバー演じるエレン・リプリーが主役みたいなことになってますが、あれは数ある登場人物の一人がたまたま生き残った…というのが基本スタンスです。 なので、今でも「エイリアン」のキャスト表ではダラス艦長を演じたトム・スケリットが必ず一番目に表記されます。ま、そのダラス艦長も「主役」って感じではないので、あくまで「主役はエイリアン」の群像劇というところでしょうが。 |
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ところが日本のアニメはどこまでも能天気。 「パトレイバー」で主役が女の子である理由はどこにもありません。別に遊馬(あすま)であっても構わない訳です。ま、遊馬はパイロットでは無いのですが、それでも野明役は男でもいいでしょう。 あれがアメリカのアニメだったら、恐らく野明役の男と遊馬との殴り合い含めた友情ものになったことでしょう。うわっ!目に浮かぶ様だ。 要は「屈託が無い」んです。女性キャラを出したり、あまつさえ少年漫画であってすら主役に女の子を配することに屈託が無い。ある意味一番「男女差別が無い」状態でしょう。 日本では「三国志の英雄が女子高生に転生してお色気バトル」みたいな設定だけ聞くと頭がくらくらしそうな作品まであったりするんですが、じゃあアメリカでカスター将軍が鬼女教師に生まれ変わって、「スー女子高」に乗り込んで猛威を振るう企画が通るか?と言えば通らないでしょう。つーか正気を疑われます。多分。 |
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それなら女子高生に生まれ変わった愛染葉羽(あいぜん・はわ)ちゃんと葉頓須美(ぱっとん・すみ)ちゃんたち「連合女子高」が愛院呂芽瑠(あいん・ろんめる)ちゃんを使いこなす亜取府火虎(あどるふ・ひとら)率いる「第三女子高」との対立を…って書いててアホらしくなってきました。 ともあれ、これほど日本が「マッチョイズム」から遠いのは良くも悪くも戦争から遠ざけられたことが大きく影響しているんじゃないかと。 アメリカは「全面敗戦」した経験が無く、今も現役でバンバン戦争している国ですからそりゃマッチョイズムでしょうよ。 つまり「男らしいこと」が至上価値のまんまなんですね。 では日本はどうかというと、是非はあれど表面的には平和なのでマッチョであることが至上価値ではありません。 それなら何かと言えば「可愛らしいこと」とか「綺麗な事」とかになってくる訳です。 私はオタク第二世代ですが、中学生の頃とかにはバブル景気でしたから「女子大生」が至上価値でした。実際にどうなのかはともかく、「女子大生に売れる」ものがもっとも優れたものであり、それを目指すのが企業の目標だった訳です。 それこそ競馬場だの牛丼屋だのといった「男しか行かない」「オヤジ臭い」場所にオシャレな女性が次々に進出し、凄い勢いで洗練されて行きました。 一ゲーマーとしてはこの時期古風な「ゲームセンター」が軒並み「若い女性でも入れる」という看板の「アミューズメントセンター」なるものに変貌してしまい、コアなゲーマーの切り捨て政策を行なったことが残念でなりません。 現在のゲームセンターの隆盛を見るに、長期的な目で見てこの判断は正しかったのは間違いないのですが…ねえ。 これが90年代に入ると、もう最終形態「女子高生」に到達します。 ことここに至ると「女子高生である事」による「人生のアドバンテージ」はどうしようもない域に達します。 何しろこれらは「努力によって身に付ける」ものではありません。 「若い」「女の子」であることが至上価値なのですから。 生まれつき男だったりしたらもうアウトだし、仮に女でも女子高生ブームの時点で年齢が過ぎていれば同じくアウトです。 今では考えられないことですが、「女子大生ブーム」やそれ以前の時期における「女子高生」なんぞ野暮ったさの象徴であり、何の注目も集めていませんでした。「単なる若い女の子」というだけ。「女子高生」には年齢区分以上の意味は無く、大袈裟に言えば存在しないも同然でした。 ところが今では「女子高生である」というだけで勝ち誇った様な権勢ぶり。高校を卒業後も高校の制服に身を包んで繁華街を練り歩く「なんちゃって女子高生」が存在するという一事をもってだけでも「女子高生」の持つ無言のステイタスが伺えるではありませんか。 しかし連中が何か努力によってその地位を勝ち取ったか?と言えば別に何もやってない訳です。現在日本に生まれた若い女」という「生まれつき」によるものだけなのです。 しかし、「努力しても得られない」ものであるからこそそれは貴重であり、かけがえの無いものなのです。これは「負け犬の遠吠え」で一気に有名になったライターの酒井 順子さんによる「制服概論」(硬い書名ですが、要は「女の制服フェチによる愛の告白」です)にねちねち書いてありますので興味のある方はどうぞ(^^。 |
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まあ、グダグダ書いてきましたが要するに「可愛い女の子であること・可愛い女の子になること」は逞しく・勇ましいことが求められる戦争とも縁遠いわが国に於いては下手すりゃ「最終目標」なのではないか?…ということが言いたいんです。 だってこれ以上のことってあります?元々我々オタクはリアルな三次元で夢を追うことは諦めて二次元で楽しい妄想に耽(ふけ)る生活を選んだではありませんか(少し大袈裟)。 その空想の世界では何だって出来るんだから、ならば可愛い女の子になって楽しく過ごすのも悪く無いでしょう。 本来は「可愛い女の子」になればそれは「肉体的な弱さ」も併せ持つはずです。それは大袈裟に言えば人類の摂理でした。 ですが、この作品はまがりなりにも「少年魔法少女もの」です。 つまり、この世界で「変身」するのは「怪物を倒せるほど強いのに可愛い少女」という願望で塗り固めたみたいな存在ということなのです。 そう!このご都合主義こそが「少年魔法少女」の醍醐味なのですよ! 今思い出しましたが、 |