げんしけん(2002年〜2006年・木尾士目・講談社)
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げんしけんOFFICIALBOOK

 「げんしけん」とは「現代視覚文化研究会」を短縮した通称で、とある大学のサークル名。かねてからオタクに憧れていた主人公がおっかなびっくり入部し、そこから始まるめくるめくオタク生活。
 現代オタクの生態を生々しく描いた
いろんな意味で「痛い」漫画…辺りが通常この作品に対する一般的なイメージだと思います。
 確かに登場するオタク連中の話し振りとか生態とかを見ていると「あるある!」と膝を叩くオタクが多数でしょう。旬の作品という設定の劇中作品がかなり作りこんであり、その「語り」もいかにもそれっぽいなどディティールも細かいです。
 が、この漫画がもし本当にオタク趣味をただ全開にしただけの自己撞着漫画であったならばここまでの人気を博す事はありますまい。以後、ちょっとした分析をば。

 まず、主人公の笹原はオタクではありません。

「げんしけん」登場人物その1。笹原完士(ささはら・かんじ)。彼の視点で物語は進行します。

 勿論一般的な意味で言えばオタクなのですが、彼は言ってみれば「オタクに憧れた」「オタク予備軍」程度の認識が相応しいのです。
 そもそも「げんしけん」に入るかどうするか?で悩んでいるところから始まるのです。
 これは案外重要なポイントで、もし本当に「バリバリのオタク漫画」であるならば
「げんしけん部員」が主人公で始まっても構わないはずなんです。実際その様な漫画も存在します。
 主人公視点が既に「外部からの入ってくる」目線を持っているということはこの時点で作者は既に
「オタク集団」を客観的に見ていることになります。

 そして、この漫画の成功の最大の要因が「コーサカくん」の存在。

「げんしけん」登場人物その2。コーサカくんこと高坂真琴(こうさか・まこと)。
彼がいなかったらこの漫画そのものが成り立たないほどの重要人物だと思います

 何事に於いても超然として動じないばかりかゲームをやらせれば達人で、オタク知識は人一倍、それでいて美少女みたいな外観を持ち、無邪気にオタクをやっているというある意味
「理想のオタク像」です。
 ここでいう「理想のオタク像」というのは、「オタクそのものとして卓越している」という意味も含みますが、「どうせオタクになるのならばああいうオタクになってみたいなあ」という意味。
 どれだけオタク臭いことを言ってもやってもその外観故に気持ち悪さが最大限に払拭され、間違いなく感性は「こっち側」なので純粋な(?)オタクとしても「嫌味な奴」として排斥する訳にもいかず、むしろ「お仲間」です。
 あまつさえ彼女までこしらえて、立派な社会人(…)として活躍するのみならず人の心の機微まで読むことの出来る奥深さすらある…。
 
正に「完璧なオタク」でしょう。

 筆者も人並みにオタクの末席を汚させてもらっている積もりですが、実は凡人が
「一流のオタク」になるには「努力と才能」が不可欠です。
 コーサカくんはその辺りを超越した
「オタク超人」なのですね。
 「ミスタークリス」を紹介する際に少し触れましたが、人は「物凄い事を平然とこなす」からこそその人物に対してカリスマ性を抱くのです。
 一流のプロが人知れず誰よりも努力をしていた…などというのは一般人がせめてその程度のことは無いと報われないからと妄想ででっちあげた御伽噺みたいなもので、実際には細かいことを超越した人間というのは確かに存在します。
 とある音楽評論家の先生が学生時代の話。ミュージシャン目指して毎日練習を積んでいたのですが、ある時ふらっとやってきた同級生が余りにも見事にギターを弾きこなすので「そのコードどうやって覚えた!?」と勢い込んで聞いたところその同級生は「コードって何?」と言ったそうです(!)。
 つまり彼は誰にも習わずに適当に楽器をいじっているのに、毎日死に物狂いで練習していた若き日の音楽評論家先生よりも遥かに上手かったんですね。そしてその先生は「この世には選ばれた人間というのがいるもんだ」とミュージシャンとして大成する道を諦めて評論家を目指して勉強を始めたそうです。因(ちな)みにこの時の同級生が後に「南の全ての星達」というバンドを結成することになるんだとか。
 閑話休題。

「げんしけん」登場人物その3。春日部咲(かすかべ・さき)。一般人代表。
アニメ版においては何かと笹原と遂になる演出をされていた

 「げんしけん」は分析すればするほど所謂(いわゆる)「オタク漫画」とは構造が全く違うことが分かってきます。
 確かに「オタクねた」に相当するものは大量に散りばめられています。
 例えばとあるキャラのプロフィールにある「好きなキャラ」が「ザンギュラ」になっていますが、これは事情を知る人間ならば転げ回って笑うところ。

ちなみに第一巻収録の大野さんのプロフィール。
各キャラのプロフィール決定の内幕は「げんしけんOFFICIALBOOK」に全て解説されています。

 「ゲーメスト」(現「月刊アルカディア」(エンターブレイン))という、唯一のアーケードゲーム専門雑誌がかつてありました。
 小さな出版社から発売されていたこともあって、とにかく記事中に「誤植」が多く、多いのみならず笑えるものばかりと評判だったのです。
 その中でも最大級の誤植が
「ザンギュラのスーパーウリアッ上」でした。この「ザンギュラ」とは「ザンギエフ」のことでしょうが、「スーパーウリアッ上」とは一体何事か?多分「ウリアッ上」というのは「ラリアット」の誤植なのでしょうが、実は「スーパーラリアット」なる技は存在しません(「ハイスピードラリアット」ならある)。
 「ジャンプ大ピンチ(パンチの誤植)」とか「ジャンプ大パンツ(パンチの誤植)」とか編集長の名前が「石井ぜんじ」氏なのに「右井ぜんじ」氏になっているとか色々あったのですが、インパクトで最大なのがやっぱり「ザンギュラのスーパーウリアッ上」なのです。

 つまり、
「ザンギュラ」はそれのパロディな訳です。
 …この辺りのこだわり(?)がこの漫画を「ディープでマニアックなオタク漫画」と誤解させているんでしょうね。いや、その分析も間違ってはいないんですが。

「げんしけん」登場人物その4。斑目晴信(まだらめ・はるのぶ)。正に「ザ・おたく」とでも言うべき人物。
濃そうなことを言っていながらジャンルによっては結構薄いあたりのリアリティが痛い(爆)

 最初に読んだ時から
「この漫画のキモはコーサカ君だ」と直感しました。というのは、多くのオタクはこの漫画を読んで心理的に不安になるからです。

 「不安」とは何か?

 
オタクの最大の武器は「『しょーもない知識』一杯持っている自分」というアイデンティティです
 つまり、普通の人間にはあらゆる意味で適わないけど、ことオタク分野に掛けてならば誰にも負けない!という
裏返しの選民意識ともいえる内弁慶意識なんですね。
 何故オタクがこんなお山の大将になっていられるかと言えばそれは
「ライバルがいないから」に他なりません。
 確かに高級官僚に比べれば学歴もないし、アイドルタレントに比べれば異性にモテることもありません。しかし、
「オタクとしてのレベル」だったら誰にも負けない!お前ら歴代の戦隊シリーズの名前全部言えるか?限定販売のハルヒタペストリー持ってるか?

「げんしけん」登場人物その5。久我山光紀(くがやま・みつのり)。巨漢タイプのオタク代表か。
人ごみの中では声が通らないというコンプレックスがある。
笹原が入る以前のげんしけんに於いては唯一絵が描ける人材でもある

 私もオタクなので全く同類ではありますが、我々のアイデンティティが「他の一切のことを振り捨てて獲得しているオタクとしてのレベル」であったとするならば、
そこで他人に負けてはならないのです。逆に言えばそこで勝ってさえいれば身だしなみも不潔で構わないし、社会的常識なんて適当で構わないんです。
 ところがそこにコーサカ君ですよ。
 彼は見た目も清潔だし美男子、黙ってさえいれば常識もあるし異性にだってモテる。
 そして…これが重要なのですが…
オタクとしても超一流です。

 これまでの「オタク漫画」というのは「堕落したオタク」を描いて「あーあるある」と膝を叩いたり、「自分よりもずっとヒドいオタク」を描いてもらって「自分の方がまだマシだ」と“安心する”ツールという側面の強いものでした。というか自然とそうなっちゃうんですよ。楽しいですもんね「駄目人間自慢」って。
 ところがそうした凡百のオタク漫画の積もりで「げんしけん」を読むと
心神がかき乱されることになります。

「げんしけん」登場人物その6。腹黒い性格から「ハラグーロ」の異名を持つ原口(はらぐち・下の名前は未登場)。
このタイプは個人的に何人も知ってます(爆)。こんなに性格悪くないですが

 要するに「どうあがいても勝てない」対象が描かれているからです。これで
主人公がコーサカ君だったらまた違ったでしょうが、主人公はあくまでオタク若葉マークの笹原です。つまり、彼もまた超人の傍観者であり、読者と同じ立場にしか過ぎません。
 オタクの間で「ももーい」の愛称で親しまれる歌手・声優の桃井はるこ氏は案外
オタクと話すのはしんどいそうです。
 というのは彼女自身がかなりヘビーなオタクなので、話す内に半端な自称オタクの知識なんぞ上回っていることが多いんだとか。その瞬間オタクは「へぇ、凄いですねえ」などと殊勝なことを言うのではなくて、自らのプライドを誇示できないことが分かると
「ちっ!」と舌打ちをして面白く無さそうにふて腐れたりするんだそうです。
 …リアルすぎて身につまされるお話です…orz。


 オタクというのは
妄想の達人であって、自らの脳内では自分の姿はクールな二枚目であったり、果ては美少女(!)だったりするんですが、実際にはキモオタです(核爆)。

 コーサカ君はオタクが生み出した理想像みたいな存在です。

 読者の多くはコーサカ君に対して非常に複雑な心境を抱きながら読み進めざるを得なくなります。
 自らのオタクレベル向上の為に、結果として身だしなみも世間的な常識も何もかも捨ててしまったオタクの拠って立つところはもう「オタクとしての自分」しかありません。
 ところがコーサカ君は
一番大事であるはずの「オタクとしての水準」においてすら凡百のオタクを上回ります。つまり、彼と比べてしまうと平凡なオタクくんは「単に常識が無いだけの半端なオタク」に成り下がってしまうのです。
 
我々に残されている道は「水準以上の一般人」か「物凄いオタク」しかありません。なのにどちらにもなれないとしたら…正に絶望的です。
 外見や雰囲気というのは本当に大事で、オタクは美少女になれないのならばマッチョ男ではなくてコーサカ君みたいなユニセックスな風貌に憧れます。
 それが
「自意識だけは美形」の不細工がいたらどうでしょう?コメントの付けようが無いほど悲惨な事態ですが、決して珍しくないのが恐ろしいところです。

 「オタク同士の傷の舐めあい」みたいな自虐漫画は実は「読むに値せず」ではなく、「読まなくても大丈夫」と位置付けられて人知れず消えていきます。
 ところが「げんしけん」は明らかにそれよりも高い視点にたって描かれているので一読しただけではそこに内包されている要素を全て知悉(ちしつ)することが出来ず、引っ掛かりを持ったまま何度も何度も読み返すことになり、結果として嵌(はま)ってしまうのです。
 そして原因としては最も分かりやすい
「オタクライフがリアルに描かれている」という説明に落ち着くのですね。

 都市伝説ですが「笑っていいとも」の観客は女性に限定か或いは女性に同伴されてやってきた男性のみ会場に入れるんだそうです。
 確かに女性は外見を非常に気にしますから、ずらりと並べるだけで絵になります。最近の若い女性って綺麗ですもん。そして、その女性の眼鏡に適った男性ならばある程度の水準であると。
 あれが暇そうにしている男でもいいということになると、途端に会場はむさ苦しくだらしない雰囲気になってしまうことでしょう(例:秋葉原)。う〜ん。

 コーサカ君にひっついて来る咲(さき)ちゃんはともかくも、「げんしけん」のもう一人の影の主役と真城が勝手に認定しているのが大野さんです。

「げんしけん」登場人物その7。大野加奈子(おおの・かなこ)。帰国子女だが腐女子、それでいてコスプレイヤーという
「大三元テンパイ」みたいな女子大生(核爆)。初期は気が弱く「えーとえーと」ばかり言うキャラだった

 
アニメ版の作画があんまりだったことで有名な彼女ですが、私は「外見に関してはそれほど可愛くない」という雰囲気で最初からデザインされていたと見ます。
 
徐々に「イタい女」ぶりが露(あらわ)になっていく大野さんですが、最初の内はしおらしいところを発揮します。
 女性が(可愛くなくても)魅力的に描かれているのがこの漫画が長寿人気を獲得したポイントだと思っています。

 現実問題、ああいう集団の中に大野さんみたいな方がいらっしゃったとしたならば内部分裂に発展してもおかしくないでしょう。
 色恋沙汰で人と対立するほど自意識がはっきりしていないオタク集団であれ、どうにか大野さんみたいな人の前で
いいところを見せようとする競走が始まるのは目に見えています(うわっ目に浮かぶようだ…orz)。
 大野さんの恋愛模様は「趣味が合う」ということで途中から田中一辺倒で最後まで田中なのですが、結局のところオタクが一番苦手なのが人とのコミュニケーションだったりします。
 田中というキャラは男にして
自分自身がコスプレイヤーで、それでいてカメラマンという実は「オタク漫画」には殆どいないパーソナリティを持ちます。単なるカメコ(カメラ小僧)ならよく見るんですが。

「げんしけん」登場メンバーその8。田中総市郎(たなか・そういちろう)。
一応コスプレイヤーではあるが、外観はごく普通のオタクである田中。
よくいるモデルみたいな美形男性コスプレイヤーという訳では無い。
 レイヤーの女性に言わせると同じ撮られるのでも単なるカメコではなくて
同じコスプレイヤーに撮られる方が心理的に安心するんだとか。

 オタクの行動原理については良く分かるんですが、彼らは「失敗したくない」んですね。だから勝負をしない。
 オタクには
大きく分けて二種類あります。「消費型オタク」「創造型オタク」です(ここ大事!テストに出ます!)。

 一番目立っている斑目や主役の笹原は完全に「消費型」タイプ。ひたすら消費し、論評はしますが自分で作る方ではありません。
 対して田中は完全に後者タイプ。コスプレ衣装のみならず、プラモデルにまでその創作意欲を向けていたのは熱心な読者ならばご存知でしょう。

田中のプラモ作りはバリ取りから塗装まで本格派

 別に
創造型が偉いと言ってるわけじゃありません。だって彼らは殊勝な目的で作っているんではなくて自分で作りたいと思って作っているから。
 私も一円ももらえないアマチュア小説書いてますが、「やめる方が難しい」ですからね。気付くと何か書いている。ただ、これは
気持ちがいいから耳かきをやめられずに延々やっている、と言っているようなもの。自慢にもなんにもなりません。

 ただ、
「潰しが効く」のは創造型なのは間違いないでしょうね。
 今現在クリエイターとして成功している元(現?)・オタク達は全員創造型オタクです。
 「小さい頃から絵ばっかり描いていました」とか「プラモデルを作るのは子供の頃からプロ級でした」という人が漫画家や原型師になるのは自然ですが
「ひたすら漫画ばかり読んできました」という人は漫画家にはならないでしょ?評論家にはなるかも知れんけど、評論家はクリエイターではないでしょう。

 この「創造型オタク」の代表が「一人でアニメを作る」という
漫画みたいな偉業を達成した新海誠氏でしょうね(声優の演技と音楽のみ他者に依頼)。

 彼は“凝り性である”という一点において
間違いなくオタク気質ではあるのですが、反面テレビアニメなどは殆ど見ないんだそうです(NHK「トップランナー」出演時の証言)。「テレビアニメを見まくる」のがオタクというのは一つのステレオタイプ化したイメージではありますが、「創造型オタク」には必ずしも当てはまらないのがお分かりになるでしょうか。
 現在放送されているテレビアニメ80本の内50本を見ています!というのは確かに立派ですが、それは創作スキルに直結する努力ではありません。
 よく「ノーベル賞を取る様な研究者はそのジャンルのオタクだ」という言い方をされますが、例えば物理オタクならば物理の実験や法則に詳しいのであって、「いらん知識自慢」の為にやっている訳ではありません。

 私は積極的にコスプレイヤーさんたちと交流し、会話を交わす社交的な田中や、プラモデル作りに情熱を燃やす田中を遠巻きに眺めている斑目の姿が本当に印象的でした。
 
同じオタクと言ってもここまで違うのかという感じ。
 プラモを作っている時、部長でありながらその場をエスケープしています。アニメを見ながら評論する分にはどれだけ好き放題言っても自分は傷つかないですけど、
不細工なプラモの完成品こしらえた日にはけなされて傷つくこともあるでしょ?

「プラモに関しては下手だから教えてくれ」と素直に学べればいいんですが…中々難しいもんです。

 オタクの根源的な問題点というのはこの辺にある…と言いたいところですけど
これを悪だと言われても困りますけどね。好きでこうなったわけじゃないし、こんなの性格の個性の範囲内です。

 ただ、そういう個性の人間は苦労するんですよ。その
逃れられない現実を次々に突きつけるのがこの漫画で、斑目が服を買いに行くエピソードなんてその最たる例。

「おシャレすんのが逆にみっともない」と思われていることを見抜かれているところなんて背筋が寒くなりました


この「酸素(オタク)濃度の薄いところに行ったらバカになるんじゃないか?」というモノローグ
は痛いほどリアル。自分の頭の中をスキャンされているんじゃないか?と思いました

 咲(さき)ちゃんと二人っきりになるシチュエーションのエピソードもこれを単なるゲームパロディの一編だと思っては本質を見誤ります。

この後鼻毛が出ていることを発見して一人で盛り上がったり色々するんだけど要するにそういうのは「一般人」にしてみれば“些細なこと”でしか無いんです。この回にはこの二人しか登場せず、恐ろしく小さな出来事で終わってしまいます。斑目が主役であるとも言われる所以(ゆえん)です。

 コーサカ君はゲーム会社に就職して学生時代から働き始めることになるんですが、田中といい大野さん(彼女もコスプレ衣装作ったり漫画描いたりしますからね)、そして荻上といった
「創造型」オタクたちがオタク連中の中でもきちんと人間関係を構築する事が出来、斑目や朽木といったこれといった得意分野の無い「消費型オタク」たちが埋没していくのは故無しとは言えますまい
 そんな中、笹原はギクシャクしながらも手探りで人間関係を構築できる様になるのは終盤を読んだ方ならお分かりでしょう。

 劇中にもありましたけど、オタクであるかないかは本人の意思で選択できる様なものではありません。
 そういう性格に生まれついたかどうかで決まるものです。更に言えば周囲の環境が、それを真っ当な社会人としてどうにか通用するの様に(嫌な言葉ですが)「矯正」出来る環境であるか、或いはあったかどうかも大きな要因です。
 オタクは確かにまっとうな社会人ならば一顧だにしないジャンルへの偏執狂的なこだわりや豊富な知識と経験を持っていたりはしますが、一般人が持つ常識やコミュニケーション能力には非常に欠けています。

 私自身がオタクなのでよく分かります。
 この辺りの感慨については新進気鋭のオタク評論家・本田透氏の「電波男」を参照してくださるとより分かりやすいでしょう。

 私自身の体験ですが、とある飲み会に参加した時、最初から最後まで絡んでくる二枚目男がいました。
 こちらは特に何かをした訳でもなく、怒らせるどころか彼に話しかけてもいませんが、ゴミを見る様な目つきで常に接され、意味も無く怒鳴りつけられ続けました。
 この飲み会に誘ってきた年配の女性が別れ際に「ゴメンね」と謝ってきたほど苛烈な扱いでした。
 要するにこちらが
オタク特有の不気味な雰囲気を漂わせていたことにムカついて絡んできたのでしょう。世の中そういうもんですし、そういう「まともな感性」を持つ彼は女性にモテモテでした。

 ちなみにその時私はどうしてたかって?
 お子様連れでいらっしゃってた方のお子様相手にドラえもんをそらで描いて大うけしていましたが何か?(その二枚目男は
「ガキの機嫌取ってんじゃねえ!」と吼えてましたが。多分彼は結婚しても機嫌が悪くなれば女房や子供殴ってることでしょう(推測))

 オタクはその代償として一流の「オタク能力」みたいなものを持っていると思われがちです。そこに逃げ込むしかないということでもあります。
 しかし、それは逃避でしかなく誤解を恐れずに言えば
一種の「ハンディキャップ」なのですからそこは逃げずに立ち向かい続けるしかありません。オタクスキルがあるのは、「無いよりはマシ」というだけの話であって、それを持って数々のマイナス点をプラスに転換出来るものでは無いのです。もしもそれがあるとしたならば「創造型」オタクの卓越した技術でしょうか。
 
他の「一般人」が当たり前に持っているコミュニケーション能力を獲得するのには「オタク気質」を持った人間は莫大な苦労を必要とします

 オタク能力のある無しは人間としての基礎的能力には殆ど影響を与えませんが、これら
「一般人能力」とでも言うべきものは人間としての価値を決定付けます
 
仕方が無いんです。世の中そういう風に出来ているのですから。

 「オタク界」(?)の中ではそれなりの存在感を示す事が出来る人間であっても
現実世界においてはそれまで馬鹿にしていた「普通の社会人としての常識」というジャンルでの競い合いに飛び込まざるを得ず、そこでは当然大きく遅れを取ります。というかスタート地点にすら立てないことも少なくありません。
 確かに馬鹿馬鹿しい話ではあります。人間誰しもその人が最も生きるジャンルで活躍すべきでしょう。

一応頭を使っていることは認識してくれているみたいです

 物理学者のアインシュタインは大学卒業後に何してたと思います?
 何と特許庁の事務員として働いていたんですね。
 え?大学の研究室じゃないの?とか思うでしょ。どうも大学時代の担当教授と折り合いが悪くてロクな就職が出来なかったみたいです。
 勿論、アマチュア研究家としてしこしこ論文を書いていたからこそその後があります。そしてこの事務職が恐ろしく閑職だったために下手に研究室にいるよりも時間が取れたんだとか何とか。
 ただ、アインシュタインはやっぱり物理をやることが天命みたいなもんで、彼はもしかしたら
サラリーマンで営業に回されたりしていたらそのジャンル(営業)で一流になっていなかったかもしれません。というか間違いなくなっていないでしょう。

 シャーロック・ホームズシリーズの作者として有名なアーサー・コナン・ドイルはお医者さんでした(ん?手塚治虫先生もお医者さんだったっけ)。ところがどうも
やぶ医者だったらしくお客さんが全く来ず、暇こいて推理小説を書いていたらあんなことになったらしいです(どうでもいいですが、「真城の城」が発行している同人誌「華代ちゃんの冒険」は「シャーロック・ホームズの冒険」へのオマージュだったりします。次に華代ちゃん同人誌出すなら「華代ちゃんの帰還」かな?)。

 手塚先生にしてもドイルにしても恐らく
医者としては二流でしょう(手塚先生は自らそう仰っています)。しかし、そんなもの屁ともしない別ジャンルの才能があります

二代目会長斑目政権下では結局同人誌は作りませんでした。
その間にもアニメ研やマン研は大きなイベントを主催したりしています。う〜ん

 結局オタクが夢見るのはその辺なんですよね。
 自分は確かにごく普通の人間が出来る当たり前の数々のことが出来ない。しかしそれは総合的に人間として劣っているのかも知れないが、
今は誰にも理解されない特殊なジャンルでこそ花開かせることが出来る才能があるんですよ!
 ただ、如何(いか)に一般人を馬鹿にして、世間的な常識に背を向け、同年代の人間が子供の養育費に掛けているお金で萌えアニメのDVD-BOX買っている自分をネタにして笑いながらも、「このままでいいのか?」という不安を常に抱えてもいます。

 ただ、ここまでオタクとしてやってきてしまったのに、今から“転向”して真っ当な社会人目指したとしてもオタクとしても中途半端、真っ当な社会人には完全失格のどうしようも無い人間が一匹出来上がるだけです。

 「げんしけん」はクライマックスに差し掛かると、トラウマを抱える新人部員萩上と笹原の人間ドラマに収束していきます。

「げんしけん」登場人物その9。荻上千佳(おぎうえ・ちか)。当初はマンネリ気味の展開へのてこ入れキャラ
だと思われていた向きもありました。この辺で脱落する読者も多かったのでこの態度がラストまで引っ張られる伏線
に基づいていることを知らない人もいるのでは?

 連載当初から読んでいたファンは「こんなの読みたいんじゃない」とブーイングだったそうですが、元々
「オタク」というのはモチーフに過ぎないのですから、所謂(いわゆる)オタクの生態観察漫画から離れていくのは容易に想像がつくことでした。
 エロゲー製作会社に就職したコーサカくんが実質的にこのあたりでフェードアウトさせられるのは無理もないことでしょう。彼は言ってみればデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神。物語を都合よく操る登場人物、という意味)であって、
「普通の人間」の葛藤を描くこのあたりに登場してもらっては困るからです。

 殆ど出てこなくなるし、合宿にはついて来ても寝てばっかりという徹底振り。コーサカくんには悪いんだけど、彼のこの物語に対する役割はこの少し前に終わっているんですね。

 「オタク」そのものや同人誌サークルを巡る漫画は幾つかあります。
 日頃の妄想をそのまんま描いた「妄想戦士ヤマモト」やガンダムオタクの魂の叫び「濃爆!オタク先生」、そのものズバリの「大同人物語」。
 そうそう「こみっくパーティ」も漫画化されています。

 それらと比べても
「げんしけん」の人気とそしてクオリティが頭一つ抜けているのは作者の木尾四目先生の人間としての器量が大きいからです。

 こうもはっきり言い切るのはちょっと勇気がいりますが、連載中からずっと思っていました。
 作中から観察出来るポイントとしては
「一般人」をちゃんと描けるということ。
 両方の意味で「一般人代表」の春日部咲ちゃんは読んでいてどうにも、この漫画を純粋なオタク漫画として消化できない「異物」みたいなものです。この点は作者も自覚的で作中で語らせています。

 印象的なやり取りは多々あるのですが特に海水浴に行く回で、「オタクは気持ちが悪いから近寄るな」みたいなことを平気で言い放ちます。

 オタクは
一般人からのこの手の罵倒は慣れているのですが、慣れているからといって平気な訳ではなくその胸中はとても傷ついています
 ですからそんなヒドイことを言われて
「だったら近づかねーよ」とばかりに距離を取るのですが、その後何とこんなことを言い放ちます。

一般人はこういうことを平気で言い放ったりします。
この時は控え目に言って「ふざけてんじゃねえブチ殺すぞこのクソアマが!」と思いました

 この漫画を読んでいて
一番ムカついたポイントの一つです(作中のキャラに本気で腹を立てても仕方が無いんですが)。
 人間として「気持ちが悪いから近づくな」みたいなことを言われるのはいい年こいた大学生であってもそりゃコタエます。
 ところがそれを言い放った当の本人は「軽い冗談のつもりだった。そんなの真に受ける方が悪い」と
全く罪の意識がありません

 この頃中学生時代にいじめられていたからと大人になってから同級生を刺殺した殺人事件がありましたが、恐らくこんな構図でしょう。
気持ちは良く分かります(殺人を肯定している訳ではありません。罪は罪です。心情の話ね)。
 ぶっちゃけ、これをちゃんと描くには
一般人とオタクの両方の視点を持ち、それを客観視出来る力量が必要です。
 私みたいに斑目に本気で感情移入して腹を立てていては駄目なんですね。

 また、これは多くの方の印象に残っていると思うのですがこんな場面もありました。





 
オタクである自分に声を掛けられて同類に見られたのでは咲が気の毒だからと目が合っても無視する斑目に詰め寄る咲、という構図。

 多くのオタクならば
痛いほど分かるはず。

 
「どうせ自分はオタク…世間から爪弾きにされた哀れな存在だ。ならばゴミはゴミらしく一般人に迷惑を掛けないようにひっそりと生きるからそっちもほっといてくれ」という屈折した卑屈な意識があるのもまたオタク気質。

 ところが
「一般人」である咲にはそんな心情なんか理解出来ないので「何故無視するのか!?」と詰め寄ってくるんですね。
 この辺りの
「自分が自分であることに過剰に自信のある」ところも一部の「一般人」の凄いところで、純粋なオタクには分かりにくいポイントです。お前らは何故そんなに自信満々なのか?どうして自分がいることで周囲に迷惑を掛けているかも知れないと考えることが出来ないのか?

 
オタクは自分が嫌いです
 何だかんだ言っても自分が嫌いなんです。
 斑目がどうしてあんなに咲ちゃんに迷惑を掛けるかも知れないと
過剰にびくつくのかは「一般人読者」には分かりにくいでしょうけど、オタクには嫌というほど分かります。

頼むから放っておいて欲しいと自分の殻に引きこもる荻上。
「自分にしか分からない自己嫌悪」というのは何も彼女に特別な悩みではありません
「どうしようもない自分」を只管(ひたすら)責め続け「こんな自分を好きになってしまう人がいたならば
その人が可哀想だから頼むから自分を好きになんかならないで」という意識に凝り固まっています

 
片方の心情だけならば分かると思うんですよ。生まれつき「一般人」ならば「一般人」の気持ちは分かるし(それが当たり前と思っているのならば客観的に説明するのは難しいでしょうが)、「オタク」ならば「オタク気質」は当然分かりますね。
 その
両方を高いレベルで描き分け、その感情の機微を良質なドラマに仕立てて毎回の様に展開しているのですからこの漫画が受け無い方がおかしいんです。「オタク」なんて飾りですよ。偉い人にはそれが分からんのです(←こういう自己満足はヤメレ)。

 特に驚くのは、自分の感情をしっかり抑えて描写が出来ること。これは(当たり前ですが)私なんかには絶対に無理。

 げんしけんにコスプレ衣装万引きが現れた時の顛末。

このDQNのクソ開き直り態度は読んでいるだけで本当にムカきます。同時にこいつはコテコテのオタク
である朽木を露骨に見下していて、それが態度に出ています。控え目に言って人間のクズ


正に「逆ギレ」の典型。口汚い舌打ちをして盗もうとした衣装を捨てていく。
天地がひっくり返っても100%こいつの方が悪いのにその舌打ちはどの根性がさせるのか?
自分の思い通りにならなかったからか?一体どんな育ち方をすればこんなゴミ人間が育つのか。
…でも、一杯いるよね。こういう奴

 私だったらこいつは警察に引き渡すなどの断固たる処置を取るところです。勿論劇中でね。
 木尾先生の凄いところは、こういう「一般人」に対して
これといった「解釈」を一切加えないことなんですよ。
 肯定的に描かれている訳ではありませんが、
決して否定的に描かれている訳でも無いんです。
 オタクの立場に立った作品って、油断すると
「『擦(す)れて汚れた一般人』に対して、『純真で善人なオタク』」という構図にしがちです。特に本田透氏やリンクを張った各種の「オタク漫画」などは。

 ところが木尾先生は超然としていて「こういうこともある」という冷静な態度なんですね。私なんぞ上記部分が連載されたアフタヌーン読んで
しばらくムカつきが収まらなかったんですが。
 この他に登場した「一般人」としては、笹原妹の元カレ(乱暴者のDQN)や、咲ちゃんの元カレ(割と紳士ですがオタクっぽさは一切無し)がいますが、実に説得力があります。そして肯定も否定もしない。
 笹原妹の元カレなんて気に入らないことがあると大声を出す典型的なDQNですが、別に彼が殴られて一件落着とかにはならないんだよなあ…。
 
この冷静さは本当に何だろうと思います。

まだ連載初期のやりとり。この頃の咲ちゃんはオタク集団なんて人間だと思ってません。
こういう一般人とオタクの会話ってコミケ会場では見かけないけど一般の職場ではよく見ます。
オタクにしてみれば「こちらはあなたを傷つけることが無い様に精一杯努力しますからあなたもしてね」
という態度なんだけど、一般人にしてみれば「こっちに対して多少キツい言い方をしてもいいから、こっちもするよ」
という態度。こんな状態でコミュニケーションが成り立つはずがありません。常にオタクは傷つけられるのです

 ありがちな言い方で申し訳ないんですがこれは立派な「精神的成長」物語ですよ。
 「一般人」的に言えば人生の酸いも甘いも噛み分けずとも、ある程度もまれると子供向けテレビアニメで描かれる様な「ドラマ」なんぞは馬鹿馬鹿しくて見ていられないとか。
 勿論、我々オタクはこと日本のアニメに関して言えば決してそんな事は無く、才能ある人々が子供向けテレビアニメの枠に収まらない様なドラマその他を持ち込んでいることを知っています。
 ただ、
アニメや漫画で全て人生を学べる訳では無いのも事実。黎明期のアニメは「何でも出来る人がアニメをやっている」状態でした。
 現在は「アニメ見て育った人間がアニメを作っている」(*)状態です。
 それは縮小再生産にならざるを得ないでしょう。

(*)最初にこれが言われたのは「超時空要塞マクロス」(1982年)でした。オタク第二世代にとってとても新しいアニメの様な気がしているんですが、「機動戦士ガンダム」の放送が1979年ですからたった3年後のアニメです。
 この「マクロス」は当時「宇宙戦艦ヤマト」、「機動戦士ガンダム」に次ぐ「アニメ第三の波」と呼ばれて賞賛されたものですが、現在その「第三の波」は「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年)に取って代わられているのはご存知のとおり。因(ちな)みに「ヤマト」「ガンダム」とも本放送時には低視聴率で打ち切られているのに対し、「マクロス」は余りの視聴率の高さに「蛇足」と呼ばれる27話以降も放送が延長される好評ぶりでした。
 「新世紀エヴァンゲリオン」も夕方6時半という放送時間にも関わらず低視聴率であったことを考えると、本放送時に視聴率が取れるアニメでは伝説にならないということなのでしょうか。
 最も「涼宮ハルヒの憂鬱」の様にインターネット時代の新しいヒットの形も生まれているので一概には言えないのですが。
 1983年放送の「マクロス」ですら「アニメを見て育った世代のアニメ」と言われるのですから、21世紀の現在放送されているアニメは「アニメを見て育った世代のアニメを見て育った世代によって作られているアニメ」という早口言葉みたいな情勢になっております。

 この頃言われる様になってきた狂乱の「秋葉原ブーム」みたいなのの端緒を飾っていた作品ですが、内容もブームをがっしりと受け止めるだけのものであったことがお分かり頂けるでしょうか。
 未読の方がいらっしゃったならばこの機会に是非。ここまで濃密に「オタク」風味をつけてしまった以上それから外れる文脈で語られることはまず無いでしょうが、
一読に値する作品です。

 ちなみにオタクといえばのコミケこと「コミフェス」ですが、これが
作中で何回描かれていたか覚えていらっしゃるかたいます?
 実は
「8回」が正解。
 そう、年に2回開催されるコミケ(コミフェス)は主人公の笹原の入学から卒業までの4年間を描くこの漫画においてしっかり8回描かれているんです。
 「回数は数えてなかったけど、4年で卒業するんだから8回なのは考えれば分かる」という方もいらっしゃるでしょうが、
各巻に1回ずつあるというのはご存知でしたか?
 更に言えば
全てのコミケ(コミフェス)は作劇場重要な役割を示す橋頭堡になっており、その構成力には舌を巻く他ありません。
 一応簡単にそれぞれのコミケ(コミフェス)を振り返ってみましょう。

1年目
 1回目 夏コミ 笹原コミケ初体験 (第1巻)
 2回目 冬コミ 斑目大怪我 (第2巻)

2年目
 3回目 夏コミ 笹原妹初参加(咲ちゃんによるさとしあり) (第3巻)
 4回目 冬コミ 
ボヤによるペナルティで不参加(咲のみ買出し) (第4巻)

3年目
 5回目 夏コミ 笹原会長によるコミケ初参加(コーサカ女装) (第5巻)
 6回目 冬コミ 燃え尽きた笹原コミケ不参加 (第6巻)

4年目
 7回目 夏コミ 大野会長時代、荻上の申し込みによるサークル参加(笹原売り子) (第7巻)
  *ここで笹原と荻上がくっつく
 8回目 冬コミ 落選により不参加 (第8巻)

 アニメ化もされているんですが、本当に「前半のみ」でなんと荻上は未登場(「くじびきアンバランス」DVD-BOXの付録についているOAVに登場)。月刊誌に連載中の状態だったので仕方が無いのですが惜しいですね。
 後半のキーキャラとなる荻上ですが、かなり終盤に登場した印象が強いんですけどなんと初登場は
第四巻の終盤

実は朽木もここで入部。自分がどれほど変に観られているかの自覚症状が無い最もイタいオタクキャラなんですが、
彼を責める気にはなれないんですよねえ…。態(わざ)と他人を不快にさせるためにやってる訳じゃないし…不快なのは間違いないけど(爆)

 書き下ろしがかなりあるとはいえ全九巻の漫画ですから何と
「前半」に初出しています。
 あの「オタク嫌い」(特に女オタク)というキャラは最後の最後で吐露される心情がなさしめていたトラウマなのですが、なんと
初登場の時から明確にあのラストまで考えていたということになります。
 特に中学時代のあの同級生達は作中7回目のコミケで既に登場しているんです。

荻上のトラウマを作った同級生たち。明らかに好意的な描き方はされていません。そういう性格だったんだろうという風。
しっかしこいつらもコミケとか来るのな。一般人にも性格悪いのもうじゃうじゃいるけどオタクだっているよ(爆)

 この後「回想シーン」にて中学時代が描かれるのは3ヶ月後になります。そこだけ見るとそれほどでも無い様に感じるかもしれませんが、荻上の初登場が4巻終盤で、トラウマが明かされるのが8巻序盤ですから
全体の半分近くを使ってこの伏線を張っていたことになります。
 アフタヌーンにはレベルの高い漫画が多いのですが、一度読んだからといって安心してはなりません。作者の視点ならばともかくも、読者の把握レベルでは通して読んで初めてこの辺りの計算に気が付くことになるでしょう。

 さて、お待たせしました。この辺でTSがらみのお話を少し。
 やっぱりここは「オタク超人」ことコーサカくんがらみです。
 一番最初にTSを匂わせる描写がなされたのが第一巻のこの下り。
 

 田中が「一般人」及び見栄えのするコーサカくんたちにコスプレを持ちかけます。
 おなじみロードス島戦記第一期の主役二人組パーンとディードリットです。
 しかも、ただコスプレをさせるのではなくて「逆もありかな」というのが木尾氏の非凡なところ。
 つまり、
コーサカくんにディードリットの女装コスプレをしてもらい、咲ちゃんにパーンの男装コスプレをしてもらっては?という提案なのですね。
 …そこのあなた、今胸がときめきましたね(ニヤリ)。

 残念ながらこの時は会話が出たきりでこの話はお流れになってしまいます。
 ただ、私は一TSファンとしてある程度期待はしたものの、作品全体のことを考えるならばこれをやらないのは賢明な選択だな、と思っていました。
 コーサカくんのユニセックスな外観の最大の武器は「男なのに可愛い」「男なのに美しい」というところにあるんですね。
 であるから、何らかの形でコーサカくんに女装させるのは娯楽エンターテインメントである商業作品としてかなりの読者が望んでいる「ありえる展開」です。
 ただ、これはもう
「飛び道具」級の威力であり、一度これに頼ってしまうともう戻れません。多くの長期連載で、それまで「それが無いことを前提に」頑張ってきたのに一度性転換だの女装だのが登場してからというものそれを「乱発」する様になってしまった事例を見ています。
 TSファンとしては該当展開はそりゃ嬉しいですけど「乱発」はいけません。それはインフレであり、価値の暴落を意味します。
 ですからここはある程度引っ張ったとしても「最後までコーサカくんは期待されつつも結局女装しない」でいいんじゃないかな、と思ってたところ突然やってくれました!
 作中で5回目のコミケにおいて女装コスプレにて売り子をするためにやってきてくれたのです!

作中で人気の「くじびきアンバランス」のコスプレ。衣装調達は田中っぽい(大野さんもかなり強力してるだろうけど)

 今にして思えば
コーサカくんの最後の見せ場でしたね(^^。
 男性部員は勿論のこと萩上や大野さんまで大いにうろたえる演出なんかは流石。
 本人は女装程度で動じる人格ではないのですが、主人公である笹原を中心に周囲のうろたえぶりで萌えっぷりを演出するという天晴(あっぱ)れな展開。

雑誌掲載時、田中(コスプレ好き)と消えた時点で私は完全に予想が付きました(自慢にならんけど)
それにしても大野さん楽しそうだな。コスプレで部に貢献できる売り子となるともう血が騒ぐ!ってところでしょう


コーサカくんの背中でひそひそ話している凡人ども(ヲイ)


もうフェチ視点でも満点ですよ。ちなみにコミックス書下ろし四コマ漫画にて更に言及あり

 当然後に引きずる事もありませんでした。木尾先生がその辺りを踏み外す筈も無いってのは冷静に考えれば分かりそうなもんですが。

「会話だけ」という意味ではここも該当。私みたいなこと言うなぁ荻上(爆)

 この作品はモチーフこそ「オタク」ですけども、実に真面目な人間ドラマであり成長物語であり、青春グラフィティです。
 テーマは実に現代的で、しかも答えもちゃんと出ています。


 「テーマ」とは「○○はよい」「○○は悪い」と
言い切って初めて「テーマ」になります
 「友情がテーマです」「家族愛がテーマです」というのは「テーマ」ではありません。それは「モチーフ」です。
 「友情とは素晴らしいものである」「友情なんて下らないものである」そこまで言い切って初めて「テーマ」になります。
 時代を超えて引き継がれる物語には必ずテーマがあります。
 訴えるものの無い作品はどれほど良く出来ていても忘れられてしまいます。
 では
「新世紀エヴァンゲリオン」にはテーマはあるのでしょうか?
 明示されてはいませんが間違いなくあります。
 それは
「今の自分はこのままでいいのだろうか?」という問いです。
 「問い」ってそれは言い切ってないじゃん!と思われるかもしれませんが、実はそこがポイントで作者である庵野監督は結局「今の自分はこのままでいいのか悪いのか」について遂に結論を出す事が出来ませんでした。
 ただ「エヴァ」が凡百のアニメと違うのは
「オレはどうしたらいいのか分からないんだ!」というのをそのまんまアニメにしちゃったこと。
 だからあれほど悩みまくる“ロボットアニメ”が多くの人に共感を読んだ分けですね。テレビ版最終回で強引に自己肯定をしたでしょ?とりあえず決着をつけるにはああするしかなかったんだと思います。

 満を持して制作されたはずの劇場版はテレビ版最終回を不快感を目一杯増幅して念入りに絶望させる為に作られた怪作でした。褒めてません。
 実は結論こそ出たものの
「今の自分がどうしようもないことは分かった。でも、だからどうしたらいいんだ!」という更なる深い絶望に至って終わります

 これは
今のオタクたちが嵌(はま)っている精神状態にぴったり当てはまります
 
ここまでオタクとして生きてきてしまった、それがいけなかったらしいことも薄々分かる。しかし、今から人生やり直すことなんて出来やしない!だったらどうしろというんだ!どうしようもないじゃないか!
 というのが必死に今の自分の現実から目を逸らし続けるオタクの姿そのものです。

サークル「げんしけん」は入場チケット二枚は笹原とコーサカくんの売り子に使いましたが、残りの一枚は
朽木を買出し部隊として使うために使用。本来サークルチケットはサークル設営のために使われるべきで、
会場前行列に使われるべきではありません。勿論有名無実と化してはいるのですが、ここまで堂々と商業出版物に載せちゃった
のはどうかなあ?と連載時に若干疑問に感じた数少ない下りです。

 では「げんしけん」のテーマは?
 
モチーフがオタクであるのは間違いありません。
 この場合の「オタク」は単にアニメ・漫画・ゲーム・サブカルチャー全般にやたら詳しい不潔な男達、という意味ではなく
「生まれつき人生を生きるのに不器用な人」全般と考えると分かりやすいでしょう。
 人生は不公平なもので、生まれつき大多数の人々が好きな流行だのファッションだのにしか興味が向かず、年相応に興味の対象が順調に推移する人間は「一般人」として社会に受け入れられていきます。
 しかし、そうでない「オタク」たちは、
「一般人」たちとそれほど変わらない意識レベルで生活していながらマイノリティであるが故に社会に適応するのに大変な苦労を強いられることになります。少なくとも私はそうでしたし、今だって適応出来ているなんて思っていません。

 ただ、そうであっても社会に適応する為の努力をしなくてはならないんです。
「不公平じゃないか!どうして「一般人」たちは何の苦労も無くやっていることを俺たちは必死に苦労してやらなくてはならない破目になるんだ!俺たちが何か悪い事でもしたってのか!?」といわれそうですが、それはもう仕方が無いんです。そういうもんなんです

 もう一度言います。
「げんしけん」のテーマとは「それでも、やらなくてはならない」ということです。

 笹原は「消極的オタク」だったでしょう。自分では漫画を描かず、編集者に徹していることからも「創造型オタク」ではなく「消費型オタク」ではありますが、間違いなくオタク。
 その彼が苦心惨憺して精神的成長をし、しかもそれを肯定的に描くというのは「テーマ」が「やらなくてはならない」であり、同時に「やってみて、成功すれば何とかなる」ということでもあります。

 それまでの自分を全否定しかねない方針の転換って大変だと思うんですよ。私は共産主義者ではないんですが、ガチの共産主義者の皆さんってソビエト連邦が崩壊した時には真っ青になったと思います。
 曲がりなりにも73年も続いた最後の砦が崩壊し、あれほど熱狂的にのめりこんでいた「共産主義」が
「…これって実は間違ってたんじゃねーの?」とか思っても今更引き返せませんよ。敵も味方もあんなに殺しちゃって今更「ごめん、やっぱ間違ってたわ」はねーだろと。

この作品のタイトルであるサークル「げんしけん」の名称が誕生した瞬間。
思いついたのが他ならぬ咲ちゃんというのが何気に感動的ですな(;´Д⊂…

 ただ、君子は豹変すると申します。
 この頃はなんだか悪い意味で使われているみたいですが、「君子」ってのは儒教でいう理想的な人間のことで、要するに「君子」ほどの人ならば自分が間違っていたと思えば即座に方針を正しいと思われる方向に変えちゃう、という意味で
肯定的に使うのが正しい言葉です。
 ですから「君子豹変ですか?」とか挑発的に言われたとしても「はいそうです。褒めてくれて有難うございます」というところ。

 じゃあ
結局「げんしけん」は「脱オタクのススメ」なのか?と思われるかもしれませんが、そこまでではないでしょう。
 斑目が咲ちゃんに好意を寄せている為に触れ合ううち、徐々に水と油だと思われていた「一般人」もそれはそれで色々あるもんだということに気付き始めます。
 要するに
「君らさあ、オタクもいいし辞めろとも言わんけど悪い事言わないからちょっとだけ視野を広げてみないか?」というところではあるまいかと。

 普通の大人にこんなこと言われれば余計に意固地になるのがオタクではあるんですが、ここまでガチなオタクだった人(木尾先生)に言われれば「…そうかも」となろうというもんです。
 今の時代、別に
オタクを辞める必要は全く無いと思います。
 私の友人には、姉の子供に見せるアニメを先回りして全部見ているので「これはいい」「これは悪い」と全て独自の判断基準を持っているのがいます。何故そんなに幼女向けのアニメに詳しいのか?…分かりますよね?それこそ「電車男」も見ていたという「プリキュア」とかちゃんと抑えているわけですよ(核爆)。
 こうした「特技」はあってもいいと思うんです。芸は身を助くですよ。

 ただ、残酷だけど人間は年を取るし、いつまでも子供ではいられません。人間はエルフではないから見た目も老けるし寿命だってあります。
 「普通の人間と同じ生活を送るなんて屈辱!」とか思うかも知れないけど、そこを我慢すればもしかして普通の幸せが手に入るかも?
 そんな価値観の押し付けは真っ平!というのも分かるけど視野を広げるのも大事です。

限定版も発売された第6巻収録の第33話のひとコマ。これが掲載された「アフタヌーン」2004年2月号によって、恐らく
史上初の「ツンデレ」表記が商業出版物になされたと思われる瞬間です。少なくとも天下の講談社の「アフタヌーン」という
メジャー雑誌に載ったのは初めてではないかと。現在は猫も杓子も「ツンデレ」ですが、
これが掲載された時点ではオタクですら「ツンデレって何?」状態でした。ここでも「ツンデレ」は写植されてすらおらず、
「ツンデレ」の定義すら分かりません。ごく一部で流行し始めていたマニアックな用語を使ってみました…という感じだったと思います。
別にこれがブームに火をつけた訳ではありませんが、ここまで流行するとは思っていらっしゃらなかったでしょう。

 
趣味は人間に奉仕する為にあるのであって、人間が趣味に奉仕するのはやっぱり本末転倒なのですよ。

 ごく一部の選ばれた人間に憧れて身を持ち崩してはなりません。
 
我々はコーサカくんじゃ無いんです。
 日常生活に負けて(オタク)趣味を犠牲にする?冗談じゃない!
 …そう思う気持ちも分かる。しかし頭を冷やしてみろよと木尾先生は言っているんじゃないかと。

 …この漫画はそういう漫画だと思います。
 個人的に大変に好感を持ったのは私みたいなアフタヌーン読者(現在は仕事と試験勉強によって多忙になったので定期購読は中止)にも配慮して
単行本に大量に書き下ろしの4コマ漫画などを掲載してくれていること。
 いろんな意味で大変お買い得な作品群です。
 このほど遂に無事に完結したことですし、興味を持った方は是非。

 この作品が最も人気があったのはアニメ化もされた2004年ごろでしょう。もしかしたら当時の読者の中には
「まだやってたんだ」という感想を持つ方もいらっしゃるかも知れませんが、終盤は描写が凄く丁寧になされているので寧(むし)ろまとめて読むことが出来る現在がチャンスです。

 しばらく離れていた方も、完結記念で是非手にとって見て下さい。巻数もかなり多くなってしまったのですが、読む価値のある作品です。2006.12.23.Sat.

 一般的に「機動戦士ガンダム」が放送されていた時期(1979年ごろ)に大学生以上の青春時代だった人々を「オタク第一世代」と呼ぶ様です。
 2006年現在彼らは40代になってます。オタキングこと岡田斗司夫氏、トリビア雑学の権威である唐沢俊一氏、オカルトバスターの志水一夫氏、「と学会」会長の山本弘氏、他でもない「エヴァ」の生みの親である庵野秀明氏、編集家の竹熊健太郎氏などもこの世代。
 「ガンダム」の再放送の時期に幼少時代を過ごした世代が「オタク第二世代」で現在30代程度。ぶっちゃけ真城もこの世代。
 「動物化するポストモダン」の東浩樹氏や何と言っても「電波男」本田透氏などが論客としての代表格かと。
 クリエイターとして一番脂が乗っている世代なので、現在のヒット作はほぼこの「第二世代」によって作られていると言っても過言ではないでしょう。
 そして、「ガンダム」本放送時の頃に生まれたのが「オタク第三世代」で現在大学生か20代の人々を言います。
 この
「オタク第三世代」を描いたという意味でも「げんしけん」は画期的。彼らは下手すると「ウルトラマン」「ウルトラセブン」とかも見ずに「オタク」を自称しちゃったりするので(ある程度仕方が無いのですが)オタク第一世代からは白い目で見られることになります。しかし「機動戦士ガンダム」すら観ていないのに「自称オタク」は無いと真城は思いますがね。いいから見てくれよ!馬鹿にしながらでもいいから!
 論客はパッと思い浮かばないんですけど、今ライトノベルで秀作・傑作を次々にものにしている中に「オタク第三世代」をこれからリードしていくクリエイター・論客がいるのではないかと期待しています。

*付録*「オタク」を知る為の文献

(…ったって真城が知っている程度なので多くを期待しないように)
おたくの本(2000年・宝島社)

 「おたく」という用語そのものが定着するきっかけになったとも言われている伝説的な一冊。かの町山智浩氏が編集に大きく携わっている点も注目。
 ただ、良くも悪くもオタク第一世代の描いた典型的な本なのでオタク第三世代にとってはもう織田信長を学ぶのと変わらない古臭さかも。また、いかにもサブカルチャー的な薄気味悪さ(そこがいいんだけど)もあるので別冊宝島に免疫の無い人は辛いでしょう。
 amazonに項目が存在しているってのが凄い。私は持ってますが、持っていなくて名前のみ知っている方なら即買いでしょう。
私とハルマゲドン(2000年・竹熊健太郎・筑摩書房)

 編集家・竹熊健太郎氏による渾身の作。
 オタク第一世代には所謂(いわゆる)アカデミックなインテリジェンスを持つ人が多く、哲学者を分析するのと変わらない感覚でサブカルチャーの解体に挑むスタンスが圧倒的迫力。
 「サルでも描ける漫画教室」で有名な竹熊さんだけど私は「サルまん」で有名な終盤の崩壊を余り楽しめなかったのでこっちの方が好きです。
トンデモ創世記2000―オタク文化の行方を語る
(1999年・唐沢俊一 & 志水一夫・イーハトーヴ)

 「と学会」関連の書籍は沢山出ているんですが、その中でも
壊滅的に売れなかったらしい一冊(核爆)。
 何しろオタク第一世代の代表的論客にして、数々の騒動の立役者でもある唐沢俊一氏とオカルトバスターの志水一夫氏が「昔話に華を咲かせる」という内容だから。
 世代的にギリギリ「へえ、あの時はこんな舞台裏があったんだ」と楽しめる真城ならばともかく、「ガンダムといえばSEED」の世代が楽しむには辛いかも。歴史の教科書を読む積もりで。

庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン
庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン

(1997年・竹熊健太郎・太田出版)

 本当に「エヴァ本」というのは
ダムを決壊させるほど出たけどこれが決定版でしょう。
 よく見たら1997年の発行。正に最後の劇場版が公開される頃で、エヴァブームが最高潮だった時期です。
 全編が「そうだったのか!」の連発。実は個人的にスタッフになれそうだったのになれなかった思い出があったりします(爆)。

動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会
(2001年・東 浩紀・講談社)

 新世代のオタク評論家こと東浩樹氏によるとても有名な一冊。
 濃いオタクからは山のようなツッコミを入れられていて、東氏に対するスタンスがオタク濃度のリトマス試験紙と化しております(*^^*;;。
 個人的にはオタクを論評するのに本人がオタクである必要は無いと思うんですが、やっぱりオタクが読んで納得の行かない記述が多すぎるのは問題かと。
 これまでオタク界ってちゃんとした(?)思想界隈の方にちゃんと語ってもらう土壌って無かったので、「こういう人がオタクの立場を代弁してくれる!」と色めき立ったところがあったのは間違いないでしょう。
 読みましたけど正直難しくてよく分からんです(爆)。

オタク女子研究 腐女子思想大系(2006年・杉浦由美子・原書房)

 これは面白いですよ!
 分かりやすく言えば
「げんしけん」の大野さんがやおい文化の魅力を説いた本を出版したみたいなもの
 腐女子の皆さんからは厳しい非難にさらされているみたいですが、全体の雰囲気を掴むのには最適。
 特に最新の女性オタクの生態なんてマスコミが作り上げようとしている腐ったイメージと全く乖離していて痛快の一言!
 確かにコミケとか行くと、
仲間由紀恵みたいな美女がブランド物のバッグにやおい本をドカドカ詰め込んでいる光景が普通に見られます。
 読んでいて全く退屈しなかったサブカル系の雑学本の見本みたいな一冊。
 …ってそれにしてもamazonの書評にはあんまりな言葉が並んでます。面白いけどなあ。部外者だからそう思うのかなあ。
 一応眉につばを付けて読む位が正しいスタンスかと。

オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史
(2006年・町山 智浩 (翻訳), パトリック・マシアス (著)・太田出版 )

 アメリカ人のオタク、パトリック・マシアス氏による「いかにして私は日本アニメのオタクになりしや」という一冊。もう目から鱗がボロボロ落ちる大傑作。
 よくワイドショーとかで「日本のアニメに夢中になる外国人」みたいな特集やってるでしょ?正にそんな話が満載。同時にアニメといえばカートゥーン(要するにトムとジェリーみたいな“子供向きアニメ”)しかない国で「ガッチャマン」なんかがどれほどズタズタに改作されてしまい、にもかかわらずカルト人気を得ていたかといったエピソードが満載。

 以下、目次を並べて見ます。
★『セーラームーン』はポルノもどきと弾劾されて打ち切られたがファンの署名で復活!
★日本直輸入の同人誌即売会にアメリカ女性400人が殺到!!
★「ビジュアル・ケイ」は「アニメみたいなルックスのバンド」という意味で英単語になっていた!
★『百獣王ゴライオン』がギャングスタ・ラッパーたちに崇拝されてるYO!
★『ウルトラセブン』は英語版ではコメディに吹き替えられた!
★『キカイダー』はハワイ限定で大人気だった!
★『宇宙戦艦ヤマト』から大和魂が骨抜きに!
★低迷するアメリカ出版業界を救う日本製少女マンガ・ブーム、その性描写の過激化はいつ米国の表現規制と衝突するか?
★「萌え」を理解しようとするアメリカ人の前に立ちふさがるチャイルドポルノの恐怖!
★リン・ミンメイでアメリカ人、初めて「萌え」を知ってカルチャーショック!・・他

 書評にも「こんなに面白いオタク本はしばらく無かった」なんて書かれてますが全くもって同意。これはオススメ!

電波男(2005年・本田透・三才ブックス)

 現実の女がいかにオタク男どもを下に見ているかという呪詛をたたきつけたサブカル系の本…というと如何(いか)にも痛そうだけど、
「理由があれば人を差別してもいい」という当たり前に世間に流通している認識が「差別される側」にどれほどのダメージをもたらすかが書きつけられています
 冗談抜きに今「いじめられている」人は必読。余りのリアルさに
「自分を取材して書いたんでは?」と思うほど真に迫っています。
 というか
マスコミで今流通しているクソの役にも立たない「あなたを必要としている人は絶対どこかにいる。だから死なないで」式の寝言を聞いている暇があったらこっちを読むべし。言っとくけどテレビ局に就職している奴なんて一流大学を優秀な成績で出て、年収数千万円の人生の勝ち組だぞ?オタクやいじめられっ子の気持ちなんぞ分かるわけが無いって。
 最後には泣かせるし、オタクについてちょっと語りたいなんて思っている人は必読。

萌え萌えジャパン 2兆円市場の萌える構造
(2005年・堀田 純司・講談社)

 幾つかのテーマに絞ってのジャンルの最新レポート。
 筆者の「根拠の無いことは書かない」という徹底的な取材に基づいた記述の数々がお見事。
 とにかくオタクに関係がありそうなジャンルは大半を網羅していて、ページをめくる手が止まらないとはこのことか。
 ちなみに扱っているテーマは

 アニメ、マンガ、ゲーム、メイドカフェ、ネコ耳、メガネ、妹、コスプレ、フィギュア、抱き枕、アイドル、声優イベント、コミックマーケットetc
 インタビューは、アイドル・小倉優子、TYPE-MOON・武内崇、声優・清水愛、漫画家・赤松健。

 …ってこれはもう読むしか!でしょ(*^^*。
 同著者の「ガイナックス・インタビューズ」もとにかく労作。エヴァ製作からかなりの年数が経った現在だから語れる裏事情も沢山ありますよ!

「オタク・イズ・デッド」(岡田斗司夫・同人誌)
 秋葉原に行けば一部普通のお店でも買えます。
 「オタク」の代名詞的存在で「オタキング」こと岡田斗司夫氏が「オタクは死んだ!」と宣言したセンセーショナルな同人誌。
 オタク第一世代にしてみれば第三世代なんて温(ぬる)いオタクが跋扈し、オタクといえば萌えアニメみたいなことになっている現状は由々しきことなんですね。
 確かに「“萌え”が分からない」と自称し、現在放送されているアニメは殆ど観ていないと言い放つオタク第一世代のしかも(結果においては)バリバリの「消費型オタク」の権威の嘆きなど、年寄りの繰り言と思われるかもしれませんが、読んでみると確かに頷けるところはあります。
 


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