不条理劇場8 「日記」 作・真城 悠 「不条理劇場」トップに戻る |
-------------------------------------------------------------------------------- まさかこんな日が来るとは思わなかった。しかし、これは現実なのだ。受け止めねばならない。 失ってみて初めてその価値が分かる・・・まだ学生の頃何かの漫画で読んだ。今となってはその日々も懐かしい。 俺は日記を書くペースを速めた。 「日記」とはいえ、随分前に正確な日付は失われている。いや、調べれば分かるのかもしれない。しかし興味が無かった。自分の日記が後に誰かに発見される可能性?確かに考えない事は無い。しかし、それは日常の下らないことを書き留める日記でもある程度は想定している。曰く、誰に振られただのそういう他愛ない話であれ、一応第三者に読まれたとしても少しは分かりにくくしておくものだ。少なくとも俺はそうだった。 しかし、下らない話だ。 今日は何回の突撃があったのだろう?そんな中、俺のような運動音痴が生き残るというのはまさしく皮肉である。「軍隊は運隊」・・・だっけか。あ、今にして思えばもっと本も読みたかった。 この日記帳と一緒にどういうわけか戦場に一冊だけ持ってくる事の出来た本・・・確か「フェルマーの最終定理」とかいう難しい本だった。本がこれ以外に無い、という現在の状況にでもならない限り、絶対に読みそうも無い本である。 面白かった。 その理論自体については全く分からないが、それに取り組む数学者たちの悪戦苦闘が面白かった。同時に、そんな半分自己満足みたいなことが新聞の一面を飾る時代も、それもほんの少し前まであったのだな、と感じざるを得ない。 世界は戦場と化していた。 海外派兵こそあっても、まさか外国の軍隊と本気で戦火を交えることになるとは誰が予想しただろうか。しかもどさくさにまぎれて行われた憲法改革によって国民皆兵となり、こうしてどこの国かすら分からない戦場に駆り出されている。 近代兵器は影を潜め、せいぜい突撃銃を携帯した白兵戦が延々行われた。最新式の攻撃機、爆撃機、戦闘機はどうやら別の戦場で派手に消耗戦を演じているらしい。それはそうだろう。あんなのと人間の兵隊が喧嘩すれば結果は目に見えている。ミキサーのスイッチを入れるよりも簡単に挽肉をこしらえるだけの話だ。 紛争が始まってからも様様な噂を聞いた。 この戦争はこの先10年は続く、などである。何でもこの紛争を仕掛けているのはアメリカを中心とするMIO(ミリタリー・インダストリアル・オーガニゼイション)、要は軍産複合体らしい。 CIAが双方に接触して紛争の火種を付け、いざ始まれば両方に武器を売りつける。まさに「死の商人」である。 戦争ほど儲かるイベントはこの世に存在しない。 国防省はあのくそ高いF15が2台買える値段で超高性能戦闘攻撃機F22を量産していた。 兵器の進化は留まる所を知らず、最高速はマッハを重ね、遂には自分の撃ったミサイルに空中で追いつけるほどに進化した。 こうなると最早地球に敵はいなくなる。ここから先は科学力がどうこう言うよりも物理的事象との戦いになってしまう。これを解消するにはどうすればいいのか?敵にも同じくらい強くなってもらうしかない。 かくして国家予算を湯水のように使う口実を得た彼らは猛烈な好景気に沸くことになる。 …その噂が流れたのが多分一年前である。季節が回っているので多分それくらいは経っているだろう。 最早どの国とどの国が戦っているのかすら分からない。そんなのは俺たち末端の一平卒が考える様なことではないのだろう。 俺は塹壕の中で日記のページを閉じた。 “戦場”などという非日常的な場面に身を置いていればさぞかし書くことなんか沢山ありそう、と考えるかも知れない。しかし、長く続けば何でも“日常”である。ここ数日は特に書くことも無く、日記は停滞気味だった。こうして突撃から少し遠ざかるとこのまま戦争なんか終わるんじゃないか?と甘い予感が脳裏を掠めたりするが、決してそれは無い。 戦争は勝つためにするものではない。無論、負けるためでもない。ただひたすら長引かせるためにあるのである。少なくとも軍産複合体にとっては。 一人の兵士がどれだけ安上がりに戦場に行き、無駄に物資を浪費して死んでくれるか・・・キル・レシオ(殺しの効率)という奴である。かくて訓練もろくに受けていない俺たち一平卒が方々で無駄死にを繰り返すことになった。 これは噂・・・というか噂以上の「前提」として語られていたことだが、ていのいい「口減らし」との見方もあった。 地球上の人口がこのまま増えつづければ間違いなく維持できなくなる。理論上の限界は100億人と言われる。が、実際はそう単純なものではない。まず人口は「加速度的に」増える。60億人から70億人になるよりも70億人から80億人になるほうが早いだろう。その先は言うまでも無い。 人口が60億人の現在でも人類の三分の一は十分な食事が出来ず、三分の一は飢えている、いや飢餓状態にある。100億人になれば・・・。 半分以上が食えなくなる?いや、「食えなくなる」だけでは済まないのだ。こんな実験がある。シャーレの中で微生物を培養する。ある程度の量に繁殖するまでは均衡を保っているのだが、ある時期から秩序が維持できなくなる。食糧不足から共食いを始め、排泄物などの不純物で環境は汚染の一途を辿る。そして遂には全滅してしまうのである。そう、もしもこのまま人口爆発が続けば同様の事態が引き起こされる可能性があるのだ。 そして厄介な事に、人間の脳の中にある「愛の中枢」とかいうケッタイな所は、生命の危機を感じると子供を作ろうとするらしい。恐らく自分の遺伝子を残そうとしているのだろうが、全く持って大きなお世話である。これによってカタストロフィが引き起こされるのだとしたら全くやりきれない。 たそがれてから少し時間が経った。 どこから流れてきたのか、麻薬と覚せい剤が戦場にはびこり、心理的プレッシャーに耐え切れない者は次々に手を出していった。 この一年間でどれくらいの人間が死んだのだろうか? 分からないが億単位で死んでいるはずだ。国一つが消滅してもおかしくない人数である。 塹壕の外で誰かが怒鳴った。 遂に敵の一斉攻撃があるらしい。 手に手に銃剣付きのアサルト・ライフル(突撃銃)でなだれ込んでくるらしい。やれやれ、戦略核兵器はどうなったんだ?生き残る予定のお偉いさん達のために地表は汚染しないで残そうってのか。 周囲が慌しくなる。 みんな既に勝利に向かって意気を上げているのではない。一種の自暴自棄である。逃げるものはとっくに逃げ出している。 俺もここまでか。 そう思った俺は、どういう訳か一心不乱に日記を書いていた。 “ 今日死ぬ” そう感じたのかも知れない。 最早誤字脱字など気にしていられない。俺は猛烈な勢いで文字を叩き付けた。周囲が愈愈武器を取る。 俺は最後の一行を書き終えると、これまで苦楽を共にしてきた日記に最後の別れを告げると、“お前だけは生き残ってくれ”とばかりに塹壕の隅に押し込んで飛び出した。 荒涼とした大地を見渡す。 味方の一部は既に敵陣に向かって突入した後だった。 嫌になるほどの陽気である。平和だった日々の事が否応無く思い出される。だが、不思議と涙は出なかった。 行くぞ。 心の中でつぶやくと、敵がやってくると言われた方向に向き直る。 その時だった。 …? はて…? 何やら身体に違和感を感じる。 ろくな衛生環境ではない。十分な栄養も到底とれていない。健康的な側面から見れば最悪の環境である。風呂に入らなくなってからの日数など当の昔に数えるのを止めている。細かい病気は数知れず、破傷風を筆頭として伝染病の類は間違いなく数種類は保有してしまっているはずだ。現に左耳は爆音にさらされすぎてかなり聞こえにくくなっている。今さら“違和感”などあろうか。 しかし、この時に感じた違和感はそれまでのものとは違っている。 なにやらもごもごと自分の身体の中身が移動するかのような奇妙な感覚・・・しかし不思議と痛みは無い。 筋肉痛などで自分の身体が意思に反して痙攣することがあるが、それにほんの少しだけ似ていた。 …何やら成長痛のようなものを感じる…。 子供の頃に感じたあのほのかな痛みだ。そして成長する先には何やらこりこりしたものがうごめいているのだ。 俺はそれを感じた。しかし、その箇所がち、乳首…なん…だ? 「ああっ!」 もう止まらない。俺の胸はむくむくと盛り上がり、まるで女の胸のようになってしまった。いや、女の胸そのものだった。 もともとその大きさを許容する前提で着用していない上着の前はぱんぱんに張り詰めている。それによって寄った皺がツンと上向いた乳房の形を余計に強調し、実に卑猥だ。 「あ…あ…」 俺は言葉にならない言葉を上げた。 しかし、その服の緊張状態は徐々に緩和されつつあった。 何故なら身体の別の部分がそのサイズを縮めていたからだ。 「おおおおおっ!!」 身体が小さくなる恐怖に背筋が凍りつく。が、しかし同じに別の感触が身体を襲いつつあった。 それは脚だった。 ぐぐぐ…と内側に曲がって行く…。 か、身体が…俺の…身体…が…。 目の前でほっそりと美しく、まるで白魚の様に形を整えて行く手。全身に満遍なく付いてくる薄い皮下脂肪…それは俺の身体をふっくらと柔らかいものに変えて行った。 下腹部が寂しい。 それに気がついた俺はその可愛らしい手で股間をまさぐった。 予想通りつるりとその表面をなでるだけに終わる。 ま、まさかさっきの内臓を掻き回される様な感覚は…し、子宮…が形成される過程…だったと…言うのか…!? ざざざ…と伸びてくるストレートロングの髪の毛。 全身がだぶだぶになる。しかし逆にお尻、そして太ももの部分のズボンはぴちぴちに張り詰める。 俺は完全に性転換してしまった…。 随分前に取り落とした突撃銃に気付く。 吹き抜ける風が緑なす黒髪をなびかせる。 な、何でだ?どうしてこんな…ことに? と、また妙なところに妙な感覚が走り始める。 だぶだぶの、泥まみれだった無骨なズボンが、ぴっちりと脚に張り付いて来る。 「あ…」 それは自分でもはっきりと感じられる異変だった。 その表面に刻まれたささくれもほつれも全てが消えうせ、すべすべの光沢が表面を覆って行く。そのなまめかしい脚線美が純白に染め上げられ、俺の心に何とも言いようの無い複雑な感情を催させる。 「服…が」 長袖が凄い勢いで縮んで行く。 透き通る様に白い肌が紫外線の元にさらされる。 「あっ…」 あっというまに腕全体を越えて肩までが露出する。胸から上は細い肩ひも状の部分を残してすべて消滅してしまう。 「なんだ?これ…は?」 靴の表面からあらゆる装飾が消滅し、脚全体と同じく光沢が乗って行く。その色は純白である脚に対して肌の色に近いピンク色であった。 目の前でぐにゃぐにゃと形を変えて行く衣服…そのシュールな光景はまさしく悪夢であった。 つま先になにやら「詰め物」が入っていく。同時にその靴から伸びてきた同じ色のリボンが足首をぐるぐる巻きにしていく。 「わあっ!わっ!」 思わず飛び跳ねる様に逃れようとするが、その靴はしっかりと足を包み込んでしまった。 その度に大きく揺れていた髪がひとりでにすうっとまとまって行く。 「い、いや…あ…」 それによってそれまで隠されていた肩が正真正銘さらされる。 羽毛の様な髪飾りがその髪をまとめ、長い付け睫毛が出現する。 「誰か…たす・・け…」 唇をすう…と撫でられるかのような感触…俺の顔はメイクで覆われているんだ…見えないが確信できた。 羽毛は俺の胸を覆う服の縁も覆っていた。 身体全体の生地が柔らかくてすべすべに変わって行く…その光沢を美しい刺繍が補完する。今や俺の身体は全身にぴっちりと張りついた露出度の高いレオタード状の衣装によってその女性的なラインを満天下にさらしていた…。 腰の部分から、まるでコーヒーカップの様に真横に向けてすーっと生えてくるスカート。 「一体…何が…」 きらきらと陽の光を反射するフェイクパール。 見下ろすその先には間違い無く自分の身体がある。 「起こったん…だ?」 間違い無かった。俺は…俺は…バレリーナになってしまったんだ! 何度も見返す自らの手…それはか弱い女性のものに間違いなかった。その背景には白銀色に輝くチュチュとそれに身を包んだはかない美しさの自らの身体がある。 俺は前に一歩踏み出してみた。 きゅ、とトゥシューズの音がし、そして足先を包み込むそのなんとも言えない感触…。 そして一歩歩いただけでふわりと上下し、まるで夢の様な風情を漂わせるスカート…。俺は一瞬、自らの境遇を忘れてその浮世離れした美しさにうっとりとしてしまった。 爪先立ちこそ出来なかったが、その場でくるり、と一回転する。 声が出せれば思わず「うわあ…」と感動の声を上げていたかもしれない。 その美しさと、それが自分と一体になっているという高揚感が全身を包んで行く…。 …その時だった。 何やら妙な物音がする。 「…?」 思い出した。俺は兵として戦場にいたんだ。荒涼とした大地の地平線に視線を向ける白鳥。 「…!!!」 信じられない光景だった。 地響きの様な振動を響かせながら、バレリーナの大群が押し寄せて来たのだ! 「きゃああっ!」 思わず女の様な悲鳴を上げる俺。 逃げる間もなく白鳥達に囲まれてしまう。 「あ…ああ…」 周囲で、何事も無かったかのように華麗に踊り出す白鳥達。 その時だった。 俺の足がす…と爪先立ちになる。 「ん?」 それは不随意な動きだった。 そこから先はもう、何も意識では制御できない。 俺の身体は重力の束縛から逃れるかのように地面を蹴り、空中に舞いあがった。 「ああっ!」 見事着地し、回り、そして舞い続ける。 「か、身体が…勝手に…踊って…」 それは心の中の言葉だったのかも知れない。 俺は白鳥だった。 気が付くと目の前には。いかにも王子然とした男がいた。 「ま…まさ…か…」 俺は爪先立ちになるとつつつ…と王子に向かって近寄っていた。 「い、いやだあ!…や、やめ…やめてええっ!!」 苦悶に顔を歪めてもそれは何の役にも立たなかった。俺の身体は王子に抱きかかえられる。 「あっ…」 俺は…どうして…こんな…。女として男と一緒に踊る…なんて…。 なおも舞い、踊り続ける俺。 恐らく俺と同じ運命を辿ったのであろう回りの白鳥たちにではあったが、こんな大勢に見られながら、こんな恥ずかしい格好で男と踊る破目になる…なん…て…。 羞恥に身をよじりながらも、それがぞくぞくするような快感に変わりつつあった…。 持ち上げられた白鳥の表情。
戦争は終結したものの、未だにある局地戦における異常事態についての謎は残されたままだった。 終戦後に組織された合同調査団は極秘裏に戦場の徹底調査を行った。 その戦場で起こった異常事態については実際にその現場を見たものですら全く信じられず、事実戦史的には黙殺されていた。 あまりに現実離れした出来事に、戦場を調べたところで何になるのかという批判にめげず、調査は続けられた。結局有力な物証は何一つ見つからなかった。 が、ある一冊の「日記」が発見された。 日付が入っていなかったが、戦場の描写などから、「異変」の起こった当日に書かれたものと推定された。 部隊に編入された直後から始まり、とりとめのない記述と共に、最後の突入直前に殴り書きされた記述をもってその日記は終わっていた。 この戦争の愚かさなどを書き殴った檄文で、その魂の慟哭は読む者の心を打つ。 …ただ、最後の1行に誤字が発見された。 『今日で最後だ。俺のこの戦場にいる者全てにとって今日が最後の舞台だ』 |