不条理劇場
化学実験
水谷秋夫(BLOG)
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ぼくは高校の化学部員だ。その日も放課後に化学実験をしていた。
化学部は部員が少ない。三年生の先輩が二人と、二年生のぼくの三人だけだ。
二人の先輩は偉ぶることもなく、三人の活動は楽しかった。TNT火薬を作ろうとして顧問の先生に慌てて止められたこともあったっけ。でも、先輩達は受験勉強に忙しくて、今はほとんど部活動には出てこない。顧問の先生も時々顔を出す程度だから、ほとんど僕一人で活動している。
一人の実験はちょっと寂しいけど、試薬や実験器具を使い放題だから、楽しい面もある。
その日の放課後も、僕は化学実験をしていた。
まず、実験計画書とにらめっこする。この計画書は自分で学校のコンピュータを使って打ち出したものだ。化学実験の時には、必ず計画書を自分で作りなさい、と顧問の先生にも先輩にも強く言われていた。記憶に頼ると思わぬ事故を起こしかねないからと。その日もきちんと前もって計画書を作った。それには用意すべき薬品と手順、そして注意事項が簡潔に書いてあった。
実験はマグネシウムの熱酸化だ。計画書に従って用意したものは、三脚、三角架、ステンレス皿、ガスバーナー、ステンレス製の金網、そしてマグネシウム粉末。
マグネシウムを大気中で強熱すると酸化マグネシウムになる。この酸化したあとの酸化マグネシウムの質量は、最初のマグネシウムの質量に比例する。これが定比例の法則だ。マグネシウムと酸素の結合比は1対1。マグネシウムの原子量が24、酸素は16だから、酸化後の質量は元のマグネシウムの1.67倍になる筈だ。
ぼくは計画書を見ながら実験の準備を進めた。マグネシウム粉末の重さを天秤で量る。一人の実験は何か秘密めいたものがあって楽しい。思わずマグネシウムを多めにしてしまった。
こぼさないように注意してマグネシウムをステンレス皿に移す。ガスバーナーに点火。いよいよ実験開始だ。
白い光。酸化が始まった。ステンレス金網をかぶせる。激しい燃焼を押さえるためだ。白い光はオレンジ色に変わる。ぼくはうっとりとしてその光景をみつめた。
モノが変わっていく瞬間が、ぼくはたまらなく好きだ。それが化学部員をしている理由。
燃焼が治まった。もうマグネシウムはすっかり酸化したに違いない。そう思って、ぼくは金網を外した。
「ん?」
かすかに異臭がする。ぼくは嫌な予感がしてピンセットで出来上がったばかりの酸化マグネシウムをかきまぜた。
「しまった」
一番下に黄色い物質があらわれた。これは酸化マグネシウムじゃない。窒化マグネシウムだ。
マグネシウムが窒素と反応したんだ。
酸化中のマグネシウムをぼうっと眺めていたせいで、金網を外すのが遅すぎた。それに調子にのってマグネシウム粉末を使いすぎた。これでは酸素が足りない。くそっ。実験計画書にも書いて注意していたのに。
その時だった。
ずおん。
股間に衝撃が走った。
睾丸が、上がって、しまった。
「ぐおっ」
声が出た。ぼくは思わず股を手で押さえた。
「あ、あ、あ」
次に来たのは、体の、というより、精神的な衝撃だった。手の中で、ぼくの陰茎がどんどん縮んで消えていった。
肉体的な衝撃はその後に訪れた。
「ぐああああっ」
股の、真下の、その部分が、ぐいっぐいっと、えぐられていった。
「あっ、あっ、うっ」
穴が、穴が、空けられていく。穿たれていく。ぐいぐいと。粘膜が。人の一番敏感な部分が。
ぼくの意識とは何の関係も無しに、形造られていく。
「……っ、……っ」
もう声にはならなかった。
(穴が、穴が、穴が)
もう立っていられない。ぼくは膝をつき、手だけを実験台に残して、ただ耐えていた。
「……、……」
(ういっ、いいいいっ、いいっ)
粘膜の奥へ奥へと、何物かが進んでいく。
そう、進んでいくのだ。遠い意識の果てのどこかでぼくは感じ取った。股からえぐられて、「それ」は体の中心に向かうのだと。
(ぐいっ、ぐいいいいいっ)
粘膜がえぐられながら形造られていくのだと。
(穴が、穴が)
何分間? 何センチ?
衝撃はしだいに小さくなった。それは止んだわけではなく、下腹部で、のどで、胸で、脳の中で、まだ続いているようだった。しかし、ぼくは気づいていた。
理性のどこかからか、医学的知識が頭に飛来してきた。
ぼくの、その部分に穴が穿たれたのだと。「あれ」、が造られたのだと。
女の、あれ、が。
男性の、ある部分を受け入れる、赤ん坊の通る、洞窟が、ぼくの、あそこ、に出来てしまったのだと。
その時、はら、とぼくが書いた実験計画書が、実験台から落ちてきた。それはゆらゆらと揺れながら、ぼくの目の前の床に舞い降りた。
「そんな、馬鹿な、こんな」
実験計画書の最後の行に誤植。そこは、ぼく自身が書いた注意書きだった。
(注)マグネシウムを酸化不足雰囲気中で強熱すると、膣化する。
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