おかしなふたり 連載601〜620

第601回(2005年05月30日(月))
「あ、そうそう。聞いた話なんだけどね」
 恭子が語り始めた。
 隣同士なのでお互い横を向きながら話すことになる。
 距離も数十センチも無い。
 改めて見ると・・・若いだけあって恭子ちゃんの肌はとても綺麗である。まじまじと見てしまっても全く飽きない。
「あゆみちゃんシェークスピアって聞いたことある?」
 凄い名前が突然出て来た。


第602回(2005年05月31日(火))
「シェークスピア?」
「そう、劇作家の」
「名前は・・・聞いたことあるけど」
 本当に名前しか聞いたことが無い・・・と思う。
「「ハムレット」とか「マクベス」とか「オセロ」とか書いてる人」
「はあ・・・」
 歩(あゆみ)も人並みに本は読んでいると思うんだが、シェークスピアなんて意識して読む様な本じゃないのでチンプンカンプンだった。
「「オセロ」ってあのゲームの?」
「そーそー!よく知ってるじゃん。あれってシャークスピア作なんだよ」
「ええっ!?そうなの?」
 びっくりする歩(あゆみ)。
「あはは、やっぱりびっくりした?話した人はみんなびっくりするんだけど」
「そりゃするよ!でもそんなに古いゲームなの?」
 いつの間にか話が弾んでいる。上手いもんだ。


第603回(2005年06月01日(水))
「嘘嘘。考えたのは日本人だよ」
 次から次へと色んな話が出てくる。
「元々あのゲームってのは昔からあるのよ。挟んで裏返すだけだから単純だし、ぶっちゃけ誰でも考え付くしね。それを「白か黒か」っていう内容から「オセロ」って名前で登録した訳よ。結構文学趣味があった人だったみたいね」
 少し考える歩(あゆみ)。
「「オセロ」って小説の名前なの?」
「「小説」って言うより戯曲ね。舞台の脚本のこと。あゆみちゃんって「ガラスの仮面」とか読まない?」
「ああ・・・読んだ気がするけどあんまり覚えて無い」
「もー、しょうがないなあ」
 とかいいつつ表情は怒っていない。
「「名前の権利」はあっても「あのゲームの権利」そのものはその人が個人で独占してる訳じゃないわけ。だからパソコンとかで「リバーシ」とか別の名前で売られてるのはそういう理由なの」
「へーへーへー!」
 流行番組をもじって素でびっくりする歩(あゆみ)


第604回(2005年06月02日(木))
「凄いなあ。きょーこちゃん物知りだね」
 歩(あゆみ)が知っている恭子は幼稚園の時の記憶だからこういう面は余り無かった。うーむ。
「ま、そんなことはどーでもいいとしてシェークスピアの話ね」
 そうだった。
「何?実はシェークスピアは別人だったとか?」
 ちょっと混ぜっ返してみる。
「ありゃ、よく知ってるね。シェークスピア=ベーコン説でしょ?話としては面白いけどどうかな」
 予想外の反応に大いに困る歩(あゆみ)。冗談のつもりだったのに。
「文学少女だね。恭子ちゃん」
「ん?いやあ、あゆみちゃんに褒められると照れるなあ」
 と、ちょっと顔を赤らめる恭子。
 この子も聡(さとり)とは違う可愛らしさがある。
「だーかーらー!話が進まないでしょーが!」
 面白そうにぽかっ!と肩を叩いてくる恭子。仲の良い女の子の友達になった気分だ。
 ・・・物理的にはその通りなのだが。


第605回(2005年06月03日(金))
「そのシェークスピアの作品の一つに「十六夜」ってのがあるのね」
「ふんふん」
 ここは聞き役に徹することにした。恭子ちゃんのこういう話は結構面白い。
「この中に男装の女の子が出てくる訳よ」
「へー」
 全然知らないジャンルの話なのでひたすら相槌を打つ。
「ところがここでちょっと問題が起こるわけだ」
 女の子同士だからなのか語尾を“女言葉”っぽくしようという配慮とか全く無い。
「何だと思う?」
「え・・・?」
 突然振られて困る歩(あゆみ)。
「男装の女の子が出てくることが?」
 歩(あゆみ)は繰り返した。
「何かな・・・道徳的にマズイとか?」
「まあ、確かに新約聖書には“男は女装するな、女は男装するな”って書いてあるけど」
「ええっ!?そうなの?」
「・・・旧約聖書だったかな?あと、「働かざるもの食うべからず」とか」
 どうにも信憑性が怪しい話だ。


第606回(2005年06月04日(土))
「そうじゃなくて当時は「女優さん」がいなかったのよ。あ、答え言っちゃった!」
 少し間がある。
「・・・え?どういうこと?」
「そのまんまの意味よ。当時の舞台劇ってのは出演者が全員男の人だったの」
「そりゃどうして?歌舞伎みたいなもの?」
 日本の伝統芸能である「歌舞伎」が男性のみの出演者で演じられることは流石の歩(あゆみ)も知っている。女性の役は「女形(おやま)」という専門の役職がある。
「似てるけどほんの少しだけ違うね」
「どう違うの?」
「今は男性のみで演じられてる歌舞伎だけど、創始者は女性なの。出雲阿国(いずものおくに)だね。最初は勿論女優さんもいたわけよ。でも「庶民の娯楽」じゃん?ぶっちゃけ風俗の乱れの原因と幕府にみなされて規制を食らった訳だ」
「ごめん。よく分からないんだけど・・・」
「はっきり言うとストリップ小屋みたくなっちゃったらしいの」
「ああ、なるほど・・・」
 それが「庶民の娯楽」って意味か・・・。
「だったら女優さん出さんと男ばっかりならいいだろってんで「若衆(わかしゅ)歌舞伎」「野郎(やろう)歌舞伎」と変化して今の男ばっかりの舞台になっちゃった訳よ」
 何だかもう恭子に後光が差して見える見える。正に立て板に水だ。


第607回(2005年06月05日(日))
「でもさあ」
 歩(あゆみ)がちょっと反撃を試みる。
「折角なら男が演じる女役とかじゃなくて、本物の女優さんの方がいいんじゃないの?」
「まー、多分そうだと思うんだけど、見られないものは仕方ないしね。それに・・・」
「それに?」
「何ちゅーか、ねじれた感覚っていうか“男が演じてる”ってところが倒錯心をくすぐったんじゃないかなあ。あたしゃ女だからそこまで分からんけど」
 女子高生の日常会話に「倒錯」とか出てくるとは思わなかった。
「それに、当時の風俗にも結構影響を与えたみたいよ。人気の女形(おやま)が流行らせたファッションが当時の若い女の子もこぞって真似したって話だし」
「へーへーへー!!」
 これは凄い話だ。
「女の子のファッションリーダーを男がやってたってこと!?」
「まーそー。でもって西洋の劇と決定的に違うのは「女形(おやま)」ってのは独立した一職種だってこと。成人男性でもやるし・・・“おじいちゃん”みたいな女形(おやま)だっているし、声だって裏声で高いの出す訳だしね」
「西洋はどう違うの?」


第608回(2005年06月06日(月))
「女優さんがいなかったのは、女性への差別意識ってことね」
「へ?」
「“女なんか舞台に上げない”ってこと。だから「女役」であるところの役者は声変わり前の少年を使ってたみたい。つまり完全に「代役」よ」
「そうなんだ・・・」
 どうにも複雑な話だ。
「で、やっと「十六夜」の話に戻る訳よ」
「あ、そうだった」
「つまり、当時の舞台は男ばっかりで、女役はまだまだ若くって見かけは女の子にしか見えない男の子が女の子演じてる訳よ。あたしの想像だけど」
「多分そうだと思うよ」
「でも本当は男の子なのね?つまり「男の子」が「男装してる女の子」を演じる訳だ」
「あ、そうか・・・」
「見かけは男なのよ。男装してるんだから。でも“中身”は「女の子の役」な訳で、つまり彼は実際は男の子なのに、「男装」して「男の子の振り、というか“男の子を演じている女の子”の演技」をしなくちゃいけなかった訳だ」
「うわー!ややこしい!」
 本当に頭がこんがらがる様な話だ。
「で、あたしは今のあゆみちゃんを見てその話を思い出した・・・ってこと」


第609回(2005年06月07日(火))
 やっと結論までたどり着いた。
「あ、なるほど・・・あはは」
 ややこしいことはややこしいけど、一瞬にして思いついたことを言葉で説明してしまうとこうなるのかもしれない。
「でも別に男装してる訳じゃないんでしょ?」
「・・・だね」
 細かい設定を作っていないので突っ込まれると弱い。
「てかこれってあゆみちゃん・・・さっちゃんのお兄ちゃんの服なの?」
 思いついた様に言う恭子。
「え・・・」
「でしょー!そーだよきっとそう!」 
 勝手に決め付ける恭子。事実だが。
「やー、面白いなあ。みんなさっちゃんの差し金だよね?全くどこから衣装調達するのかしら。あたしにも貸して欲しいよ。着てみたい制服とかあるし」


第610回(2005年06月08日(水))
 直後に恭子の方に電話が掛かった。
 普通に男友達と話しているのならば適当に弾むこともあるのだが、何しろ状況が特殊すぎる為に口ごもりまくってしまう。何だか申し訳ない。
 そもそも、歩(あゆみ)は女装したのをきっかけに嬉々として女言葉で身をくねらせる「お祭り男」というタイプでは無い。ノリノリで“女の子”を演じることが性格的に出来ないのである。
 話しながらも高らかに笑う恭子を尻目に自らの携帯電話をにらむ歩(あゆみ)。
 あのアホ聡(さとり)が・・・さっさと掛けて来んかい!それをきっかけに恭子ちゃんには悪いけどこの場を何とか抜け出すのだ。


第611回(2005年06月09日(木))
「やー、ごめんごめん長引いちゃって」
 こちらとしてはもっと長引いて欲しかったのだが、恭子が話し終わった携帯電話を折り畳む。
「あとねー、思い出したよ」
「何?」
 恭子と聡(さとり)は小さい頃から仲が良かった。性格もよく似ていて天真爛漫という表現がぴったり当てはまる。違いは恭子の方が一つ年上であることもあって、若干落ち着いて品がある・・・様な雰囲気を漂わせているというところだろう。
 昔からそうだが、恭子は年齢よりもずっと年上に見られるタイプである。今この瞬間も、服と化粧を工夫すれば充分二十代半ばで通るだろう。実際は歩(あゆみ)と同じ十七歳の女子高生なのだが。
「さっちゃんに聞いてたのをすっかり忘れてたわ。あゆみちゃんって歌のこと以外は凄く大人しくてあんまり喋らないのよね」
「そ、そう!そうなんだ!うん」
 必至に食いつく歩(あゆみ)。溺れる者は藁(わら)をも掴むというところか。


第612回(2005年06月10日(金))
「ふーん、じゃあ一番好きなのはあゆなんだ。ややこしいね」
 と言って微笑む恭子。ここで言う“あゆ”とは、当代の歌姫・歌手の沢崎あゆみのことである。本名が全く同じなので確かにややこしい。
 しかも、余り物事を深く考えない聡(さとり)によって、「女の子の姿」の歩(あゆみ)を「あゆみ」という別人であるということにしたもんだから余計にぐちゃぐちゃになっている。
「あゆのどの辺が好きなの?」
「みんな好きだよ。曲もいいし、詞もいいし」
「ふーん、そうなんだ・・・」
 何故か余りノッて来ない恭子。
「でも古くない?」
 しばし沈黙。


第613回(2005年06月11日(土))
「・・・古いって?」
「いや、別にそんなに深い意味は無いけど・・・彼女ってたしかあたし達が小学生くらいの時から歌ってるよね?なんつーかもう飽きたっていうか・・・」
「・・・」
 確かに沢崎あゆみはデビューから七年になる。最初のうちは十把一絡げで語られても仕方の無い地味な存在だった。特に当時は本人のキャラが大いに被る“大物”歌手が存在していたこともあって、「二番煎じ」と受け止められていた。
 が、徐々に頭角を現し、とあるドキュメンタリーでとりあげられたのをきっかけに一気に評価が高まり、三週間に一枚ペースで新曲を発表し続けるような凄まじい創作ペースで一気にスターダムを駆け上がることになる。
 この様な歌手にはよくあることだが、歌が売れるのみならず、若い女の子の間ではそのファッションに影響を受けて模倣する行為が大いに流行することになる。
 沢崎あゆみが凄いのは、本人のスター性ということもあるが、偶然にも支えられた「タフさ」「潰れなさ」にもあると思われる。
 デビュー当時に「被っている」と揶揄された先行の“大物”歌手はその後私生活のスキャンダルにまみれ、自殺未遂事件まで引き起こしてバラエティー番組の体当たり企画で再デビューをレポートされるというところまで落ちてしまう。
 その他にも「ライバル」と目される大物歌手たちの多くが結婚引退したり、その影響で活動を縮小すると言うことが続き、“相対的に”そうした動きには余り関わらなかった沢崎あゆみは現状を維持し、結果としてトップタレントとして残っている様な格好だった。


第614回(2005年06月12日(日))
 狙っているのかそうでないのか分からないが、熱愛を報道されることはあっても決して結婚したりせず、どっちつかずのままその状態を何年も続けている。
 結果としてこれが功を奏し、「熱愛」に憧れる若い女の子には憧れられ続け、また結婚しないことでトップニュースとして扱われ続けるということになった。もしもこれで結婚してしまえば「スクープ性」は一気に下落する訳だがそれを防いでいるということになる。ライバル歌手たちが軒並み沈んで行ったのはこれが原因である。結婚してしまえばそこが頂点なので後は「別居報道」「不仲説」「離婚の噂」などネガティブな側面しかとりあげられなくなってしまう。
 ただ、創作ペースは数年前から明らかに落ちており、何よりヒットの規模も徐々に縮小傾向ではある。数字の問題もあるが、数年前までは彼女のヒット曲ともなれば沢崎あゆみの名前を知らない人であれ、方々で流されるために多くの人々の耳には残ったのである。だが最近ではそれもない。いつの間にか現れていつの間にか消えている。
 それでいて「大物」という付加価値だけは付くので強引な宣伝手法による露出こそ目立つが、肝心のヒットは無い、という構図に見えてしまう。
 更に所属レコード会社のお家騒動や、大物歌手にはありがちな「わがまま疑惑」など悪い噂も絶えない。


第615回(2005年06月13日(月))
「それに・・・」
「何?」
 出来るだけ気分を落ち着かせようとして声のトーンを抑える歩(あゆみ)。
「ちょっと顔がねえ・・・」
 歩(あゆみ)は沈黙した。恭子は言いがたいから口を閉ざしたのだろうが、言いたいことはよく分かったからだ。
 沢崎あゆみに付きまとうよくない噂の筆頭が「整形疑惑」だった。
 確かに少しバランスが悪いほど目が大きい人ではある。また、歌手として芽が出ない頃に少し違う名前でドサ回りアイドルまがいのことをやっていた過去はファンの間では有名で、その頃のグラビア写真やエキストラで出演したコマーシャルも今やお宝扱いである。
 その頃と顔が違う・・・か。確かに違う様に見える。
 でも、それは整形とは限らない。人間なんて立場で大きく変わるものだ。タレントとしてトップをひた走る彼女が人に見られることで輝きを増したとどうして好意的に解釈できないのか。
 確かに沢崎側にも付け入る隙はあった。
 彼女くらいになるとプロモーションビデオにも大いにお金を掛けることが出来る。
 そこで何だか「アーティスト」を気取ったプロモーションビデオの監督がやたらに「芸術方面」に走ってしまい、彼女に珍妙なメイクやら過激な衣装やらを着せまくったのである。
 「豹」をイメージしたボディスーツみたいなのあたりまでは許容範囲だったのだろうが、顔中にダイヤモンドを貼り付けたり、縄文時代みたいな舞台の中で時代劇まがいのことをやるなどに至ってははっきりと「失笑」を買っていた。


第616回(2005年06月14日(火))
 また、サービス精神が旺盛なためかトップ歌手でありながら非常に露出が多い。
 全盛期には三週間に一枚ペースでの新曲発表ペースだった。それも軒並み売れていたから良いようなものの、流石にこれでは飽きられるのも早いとペースを落としたのだ。だが、賢明な選択であるにも関わらず「創作力が枯渇した」とマスコミは書きたてた。
 ライバルと目される当代のもう一人の「歌姫」宇佐田ひかりとは対照的で、年に一作も発表すれば多い位だし、滅多にテレビにも出演しない。
 対照的に沢崎あゆみはテレビの歌番組の特番があれば必ず出演するし、コマーシャルにもよく出る。
 結果として「軽く」もっと言えば「安っぽく」見えてしまうのだ。
 歩(あゆみ)が思うにはこれは単なる方針の違いで、どちらが正しいと言うことは無いと思う。事実、量産ペースで言えば数倍の開きがあるにも関わらず二人の歌姫の売り上げは殆ど同じなのである。
 しかし、表層的なところだけしかみないファンたちにとっては沢崎は「ダサい」、宇佐田は「クール」という風に見えないことも無いだろう。


第617回(2005年06月15日(水))
「いいんだよ。あゆはあゆなんだから」
 何だかぶっきらぼうになってしまった。
「本当にファンなんだね」
 無言で頷く歩(あゆみ)。
 これは自分を取り繕う必要は無い。そのまんま出せば良い。
 もしも男の歩(あゆみ)の時に同じ質問をされれば全く同じように返してしまうことになるが、そんなこと知ったことか、と思った。
「あゆは歌手なんだから、歌が上手ければいいんだよ。何してても関係ないよ」
「ふーん・・・確かにそうかもね」


第618回(2005年06月16日(木))
「みんなおかしいよちょっと!わがままだとか何とか。歌手は歌が上手ければいいんだからそういう雑音は全部無視すればいいの!」
 何だか興奮している歩(あゆみ)。
「週刊誌とかもう最悪だよ!結局「今は前ほど売れて無い」ってだけじゃん!何も分からないくせに!あの連中が分かるのは数字だけだからそういう言い方になるんだよ!」
「あゆみちゃん・・・もういいよ。ゴメンね」
 肩を軽く叩いてくる恭子。
 そこから二人とも黙ってしまった。
 歩(あゆみ)も感極まって、涙こそ流さないが小刻みに震えている。


第619回(2005年06月17日(金))
 そこにタイミングよく掛かってくる電話。勿論恭子のである。
 素早く出て話し始める恭子。計ったかのようだった。「間」を持たせるには最適だった。
 歩(あゆみ)は考え込んでいる。
 ・・・思わず興奮しちゃったけど、聡(さとり)のアホは一体何をやっているのか。全然電話とか来ないじゃないか・・・。
 それにしてもとんだ事になった。軽く話をしてそのまま帰ろうと思ってたんだけど、あちこちに引きずり回される様な格好になってしまった。
「あゆみちゃんゴメン。あたしの方は待ち合わせ場所が変わっちゃった」
「え?」
 返事も聞かずに荷物を肩に引っ掛けて立ち上がる恭子。
「じゃこれ、あたしの分ね」
 と言って歩(あゆみ)の手を取り、その上に小銭をじゃらっと置く。
「ちょびっと多いけど、今それ以上細かいの無いから。余った分はさっちゃんに渡しといてね」
「あ・・・うん」
 いきなりこちらに身体を寄せ、密着させてぽんぽん、と背中を軽く叩く。
「それじゃ!」
 軽快な身のこなしで帰っていく恭子。その後に呆然とした歩(あゆみ)が残される。
 いかにも女の子同士の“軽い挨拶”な抱き合いだったけども、その余韻は充分に残っていたのだった。


第620回(2005年06月18日(土))
 その場で呆けている歩(あゆみ)。
 背中をソファに預けて天井を眺めている。
 やれやれ・・・今日はもう潰れるしかないな・・・。歩(あゆみ)は考えていた。
 対戦ゲームで常に強い相手に飢えている聡(さとり)はしょっちゅう都内でぶいぶい言わせているらしいが、歩(あゆみ)は特にこれといって都内に来る様が多いとは言えない。
「ここ、いいかな?」
 びくっ!として身体を跳ね起こす歩(あゆみ)。
 視線を上げるとテーブルの脇に小柄な女性が立っていた。
 スポーツキャップを目深に被り、大きなサングラスをしている。
 この人は・・・思い出した。
 真昼間なので人が少なかったファミレスの中で、数少ないお客として歩(あゆみ)の席の隣に背中合わせで座っていた女性だ。
「え・・・あの・・・」
 どうも今日はどもってばかりだ。
 構わず向かいの席に座るその女性。
 隣の席から持ってきたらしいメモ帳とペン、そしてコーヒーと伝票をテーブルの上に転がす。
「・・・あゆみちゃんって言うんだ」
 ひじをついてその女性はゆっくりとサングラスをずらした。

イラスト:おおゆきさん

 歩(あゆみ)は目が飛び出そうになった。