TS関係のオススメ本11-07
*アップロードする際に在庫を確認してから行ってはいますが、なにぶん古い本が多い為、時間が経過することで在庫切れになる場合もございますのでご了承下さい。 真城 悠 |
「ブロッケンブラッド」 (2006年〜・塩野 干支郎次・少年画報社)2巻続巻 |
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この作品のレビューをするに当たってその方針には物凄く悩みました。 実はここに掲載されているのは「第5稿」目です。ほぼ同量の原稿を書いては破棄を繰り返して現在に至ります。特に5稿目は脱線部分を大きくカットしてあり、話の流れは以前のものに比べてすっきりはしたんですが猥雑な楽しさはちょっと減じていて残念ではあります。 ただ、こうでもしなくては収拾がつかなかったのです。 どうしてそんなに論評が難しいかといえば最大の理由はこの「ブロッケンブラッド」が「パロディ」「風刺」満載の漫画だからです。 なので、「ブロッケンブラッド」の第1巻を読んだ時には腹を抱えて大爆笑したものの「なんちゅー紹介しにくい漫画だ」とも思ったのでした(^^(人格攻撃や誹謗中傷の意図はありません)。 とはいえ、凡百のTS作品群とは一線を画す作品であるだけに絶対に紹介したい…と思っている内に時は流れ、グズグズしている内に2巻まで発売されてしまいました。 そもそも「パロディ」とは何でしょう?(Wikipediaより)。 「現代の慣用では、パロディ(parody、παρωδια)とは、他の芸術作品を揶揄や風刺、批判する目的を持って模倣した作品、あるいはその手法である。文学や音楽、映画を含めたすべての芸術媒体に、パロディは存在する。替え歌もパロディの一形態である。文化活動もまたパロディの素材となる。軽い冗談半分のパロディは、しばしば口語でスプーフ(spoof)と呼ばれる。」 *追記 「パロディとは先行作品に対する批評的な相違を伴った模倣であり、常にパロディ化されたテキストという犠牲を払うものではない」リンダ・ハッチトン(文芸評論家) よく似た言葉に「オマージュ」があります(Wikipediaより)。 「オマージュ(仏:hommage)は、リスペクト(尊敬)や敬意のこと。騎士の臣従礼。芸術や文学においては、尊敬する作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作する事。また作品のモチーフを過去作品に求めることも指す。昨今は斬新なアイディアの欠如などから、「オマージュ」と称して過去の作品に頼る場合があったり、デジタル技術により複製精度の向上でオリジナルと変わらない複製も作れるようになった。こうした背景から、しばしば著作権やモラルの問題に上がる。 映画などに於いては、何らかの記念作品の場合、過去の作品に遡り過去の監督などへのメッセージとして映像の一部に古い映画をイメージする部分を挿入する事がある。 」 お笑いを狙ったパロディ作品郡というのは、非常に「自己言及性」が高い訳です。人から言われる前に自分でツッコミを入れているみたいなものです。なので、後から他人があれこれ言う余地が殆ど、或いは全く無い。 これが「天然系」(電波系)での笑いならばあるんですよ。だから「トンデモ本の世界」みたいな「ツッコミ芸」が成立する訳です。 |
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ちなみに私はと学会の本はどれも面白くて好きですが、これが「残酷な笑い」であるという自覚はいるよなあ、と思って読んでいます。 彼らがやっているのはバラエティ番組で「変な一般人」をさらし者にし、妙な受け答えをさせて大爆笑を誘わせ、さらしものにして笑いを取っているのと全く変わりません。 要は「弱いものいじめ」「強者が弱者を笑いのめす」構図です。 あー反論があれば掲示板かメールにどうぞ。やりとりは基本的に公開とさせていただきます。 ただ…人間が罪深いのは「と学会」の本は勿論のこと、その手のバラエティ番組にしても悪魔的に面白いということです。 あれは何故なんでしょうね。ひょっとしたら人間というのは「自分よりも明らかに劣る存在」を見つけ出して嘲笑することで自らの優位性を自覚して安心しようという潜在意識でもあるのでしょうか。 「笑い」というのは最初から構造的に「差別」を含んでいるもので、「差別」を否定してしまっては「笑い」そのものを否定せざるを得なくなるのです。 チャップリンの映画ではチャップリン演じる「チャーリー」というキャラクター(チョビ髭のあのお馴染みの姿ですね)が滑ったり転んだりドジをしたりするのをみんなで見てゲラゲラ笑っている構図です。 これなど明らかに「差別」ではありませんか。 |
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チャーリーは別に笑いを取ろうと思って滑ったり転んだりしているのではなく、あくまでも本人は真剣なのです。そして、でないと笑えない。 この頃「とんでもなく馬鹿なタレント」を笑い飛ばすコンセプトの番組がヒットしているみたいですが(2008年初頭時点)、これなど明確に「馬鹿を差別」して笑っている図式でしょう。 芸能人だかタレントだか知らないけども、こんな奴よりはオレの方が私の方が頭がいいぞと。 これはハンディキャップを持っている人を笑い飛ばしているのと同じ構図である…まで言ってしまうと怒り出す人がいるかと思うんですが、そう言わざるを得ません。 信じられないことに英米では「差別ギャグ」という一種の「ジャンル」があります。 私が夢中になって見ていた海外ドラマに「アリー・my ラブ」というドラマがあります。 |
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そもそもテレビ黎明期には俳優さんが海外のドラマを「吹きかえる」ことから「声優」というカテゴリがスタートしたので「俳優が声優をやる」ことを否定しては「反戦主義の看護婦」みたいな話です(近代看護婦の始祖であるナイチンゲールは従軍看護婦)。 そんなこんなでこのドラマでカリスタ・フロックハート演じるアリー・マクビールの声を当てている若村真由美さんの演技は物凄いと思います。正にベストキャスト! |
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色々なキャラクターが登場するのですが、中でもアジア系で性格の悪いキャラクターのリン・ウーの毒舌は凄かったです。 リメイク版のチャーリーズ・エンジェルの一人を演じたルーシー・リューなのですが、何と車椅子の人に対して「何よ!どうせタダで車停めてるくせに!」みたいなことを言い放つのです。 これはちょっと説明が必要でしょう。 アメリカにおいてはわが国に比べても一部バリアフリーなどの「障害者優遇」の仕組みが出来ており、特に駐車場などは「障害者特別枠」などがあって無料で利用できたりするんですね。 それをあてこすった嫌味発言なのですが、よりにもよって本当にハンディキャップを持っている人に対してこんな事を言うなんてムチャクチャです。 最初に観た時には心臓が止まるかと思いました。 しかも恐ろしいことにこれをコメディの一場面として撮ってる。 確かに、みんなどこかで潜在的にそう思ってるのかも知れないけど、それは人として言っちゃ駄目でしょ。 ま、でもあるんですよねえ。こういう「不謹慎ギャグ」みたいな世界って。 ちなみに日本人が大好きなイギリスのコメディ「ミスタービーン」にも目の不自由な人を使ってオチで爆笑を取る回があったりします。 |
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実はこれ、イギリスに留学してあちらで本放送を観た知人がNHKで放送された同じエピソードのラストがカットされていることに気がついて「実は」ということで教えてくれたもの。 わが国の国営放送は「シャレにならん」とカットしたのでしょうが、そのためにオチが意味不明になってしまっています。 要するに「みんな笑ってるけど、それって差別だよね?」という皮肉というか風刺になってるんですよ。 この手の「差別ギャグ」で槍玉に挙げられる作家といえば何と言っても筒井康隆先生でしょう。 |
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精神障害者というか知的発育が追いついていない人(俗に言う「知恵遅れ」)の人を馬鹿にした短編が余りにも有名。しかも最後の最後で笑わせるので、読者が「それまで笑っていた自分」という事実を突きつけられるという凶悪な作品です。 教科書に載せるかどうかで大問題になった「無人警察」は「てんかん症」を扱った短編。つーかこれをよりによって国語の教科書に載せようとした奴は「ひぐらしのなく頃に」を地上波テレビ放送しようとした奴と同程度に馬鹿だと思います。 でも、どれも真剣にマイノリティやハンディキャップを持った人を笑い飛ばすためというよりも「それを梃子(てこ)にして残酷な人間性と、それをひた隠す社会の欺瞞」を暴くのが目的ではないかと。 先ほどの「馬鹿芸能人を笑い飛ばす」構図ですが、これも虚しいものがあります。 だってその「お馬鹿な芸能人」はそこの大学出のニートさんやリストラされた50代の元・サラリーマンさんよりも遥かに収入は高いんですよ。ええ。 少なくとも屁理屈を捏ねるばかりで親に食わせてもらっている大学出の自称・エリート氏よりずっと真面目にスケジュール管理して働いています。 |
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話を「パロディの自己言及性」に戻します。 要するに対象となるモチーフに対して語る側がある程度以上の距離を置いて「突き放し」ているんですね。 もっと言えば最初からある程度の「解釈」を作品そのものが含んでしまっているんです。 なので、パロディ作品について語ることってのは「映画を評論する」のではなくて「映画評論を評論する」みたいな行為です。「感想」に感想を付けているようなもの。 「自己言及性」が非常に高い作品としては、ポストエヴァ作品(ブログを参照)の中でも「メジャー」と言って良いであろう「少女革命ウテナ」があります。 |
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1997年放送のアニメですから、エヴァ(1995-1996)後に澎湃(ほうはい)と巻き起こったアニメバブルのまだ初期に放送されていたと言えます。 メインスタッフは「美少女戦士セーラームーン」の幾原邦彦氏などを中心に結成された製作集団「ビーパパス」。 現実とも非現実とも付かない奇妙な舞台設定に「卵の殻を破壊せよ、世界を革命するために」を合言葉に姫宮アンシーを対決で奪い合う…のですが、全編が奇妙な意匠に彩られており、非常にシュールです。 例えば生徒会がカフェテラスで紅茶を飲みながら会話しているのですが、すぐそばで野球が行なわれていて、会話しながら目の前でミットにボールがめりこみ、「ストライーク!」などと声が掛かったりします。 …え?何を言ってるのか分からない? はい、見てても何が何やら分かりません。 この他にも、無意味にストップウォッチで時間を計り続けたりしますし、劇場版に至っては主人公の美少女たるウテナはスポーツカーに変形したりします(誤植ではありません)。 |
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大体、彼らが戦っている本当の意味は何なのか?とか、アンシーの胸から剣が生えて来る理由は何かとか、考えれば考えるほど訳が分かりません。 訳が分からないんですが、ならばそれこそ「トンデモ本」とか「アウトサイダー・アート」みたいに「あっち側」の創作物かというと、間違いなくそれは無いんです。どうみても態(わざ)とああいう「変な演出」をしているのが見え見えだから。 |
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ならば「どうしてそんな変なことをするのか?」というと、これが分からないんですよ。 よく「新世紀エヴァンゲリオン」のテレビ版ラスト2話のことを「アングラ演劇みたい」と称しますが、私に言わせれば「アングラ演劇みたい」という称号はこの「少女革命ウテナ」の方が相応(ふさわ)しい気がします。 |
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少女革命ウテナ 絶対進化革命前夜 今気付いたのですが、これまた全編パロディの嵐である「ハヤテのごとく!」の 人気ナンバーワンキャラである「桂ヒナギク」の外観はかなり「ウテナ」に似ていますね。 ハヤテのごとく! 03 【初回限定版】 |
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なので、画面のシュールさで言えばちょっと他の追随を許さないほどの作品でありながら、「少女革命ウテナ」についての評論は殆ど見当たりません。少なくとも画面の隅っこに移りこんだだけの物体の色から、LD版が発売された際に、再撮影によってテレビ放送版と差が出た部分についてすら語り倒された「新世紀エヴァンゲリオン」に比べれば遥かに少なかったと言えるでしょう。 何故「ウテナ」に対して「評論」の類が出ないか?といえば、「語る余地が無い」からだと思います。 このアニメにおいては「アニメならでは」の「戦わなくてはならない舞台設定」そのものがパロディ化されていて、どう見ても虚構的に戯画化されているのです(人格攻撃や誹謗中傷の意図はありません)。 要は「全て分かった上でやってるんですよ」というメッセージに他ならない訳です。 このアニメに対して「リアリティが無い」という「評論」が成り立つかと言えば成り立たないでしょう。だってわざとやってるんだから。 「アニメである事」そのもの、「枠組み」に対する明らかな意識があり「アニメってこういうもんだよね」という風に作品そのものが「評論」となっているのですね。 なので、このアニメに対して褒めるにせよけなすにせよ、何か言及するというのはそれだけで飲み込まれてしまったみたいな話です。 既存のアニメなどを継ぎ接ぎした「MAD」と呼ばれる映像・音楽のお遊びがあります。 この分野でもエヴァは横綱で、星の数ほどパロディにされてきたのですが、意外な事に「ウテナ」は殆ど見かけません。この「MAD」作品ってのはマイナー作品への需要も高く、「よくこんなのを使ったな!」というほどマイナーな作品や「意外な組み合わせ」が珍重されるのですが、そこですら「ウテナ」は殆ど見かけないのです。作品そのものは時期的に恵まれたこともあってオタクの間ではかなりメジャーなのにです。 更に言うと「派生作品」も同様で、アフターエヴァ(1997〜2007年)の時代にあれほど見せられた有象無象のエヴァの二番煎じみたいなものが「ウテナ」には殆ど無いのです。 作品そのもののメジャーさや、「巨大ロボットアニメ」と「少女漫画(風)」という「ストレート」と「変化球」みたいな立ち位置の差は勿論ありますが、エヴァがロボットアニメ以外にも幅広く影響を及ぼしているところから考えても異様です。 直接的なパロディではないのですが、「計算されつくしたギャグ漫画(アニメ)」という意味では「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!マサルさん」という作品もあります。 |
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大体「外伝」の意味が分からん(爆)。 |
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同じく余りMAD作品を見かけません。 これなどはどれほど巧みにMAD作品を作っても「本編の方がずっと面白い」ことになってしまうんですね。つまりこれもまた「いじる余地が無い」訳です。 最近富に思うんですが、「歴史的名作」ってのはそれ自体「ツッコミ易い」という特徴を備えている気がしてなりません。良きにつけ悪しきにつけね。 または「語りたくなる」と言い換えてもいい。 |
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このコラムでは何かと言うと「新世紀エヴァンゲリオン」のことばかり出てきますが、それも仕方が無いと思います。こと影響力ということでは「エヴァ以前・エヴァ以後」に分けられるほど大きな作品です。 「新世紀エヴァンゲリオン」はそりゃもうとにかく「観ると語りたくなる」作品の筆頭でした。 それは賞賛でもいいですし、非難でもいい。或いは「自分ならこうする」というクリエイター魂の喚起でもいいのです。 アフターエヴァの時代にはそれこそ雨後の筍の様に類似作が溢れかえったわけですが、あれは全て商売上の理由からだけではなくクリエイターたちの「自分なりの解釈のエヴァ」の発表会みたいなものだったのではないかと思っています。 |
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でなけりゃあれだけ「完全新作の積もりで似てしまう」作品ばかりにはならないでしょう。全くロボットアニメでも何でもない作品でまで「トラウマ告白合戦」をかまして「人間ドラマ」描いた積もりになっている作品まで横行するのですからその影響力は筆舌に尽くしがたいものがあります(ちょっと非難しています)。 私はその方面に明るくないのですが、「ビジュアルノベル」系のゲームなどにもその「セカイ系」の雰囲気は大きく影を落としている模様ですね。 その「エヴァによって喚起された『アニメ語りブーム』」が巡り巡って「機動戦士ガンダム」シリーズの「一年戦争」語りブームに繋がり、現在のガンダムの最ブームに繋がっていると私などは解釈しております。 では何故「語りたくなる」のか?そういう作品にはどの様な特徴があるのでしょうか。 この答えは案外簡単です。 それは「本編に不足しているものがある」こと。 もっと言えば「想像の余地がある」ことなんですね。 私ですら「エヴァ」の全26話はビデオテープ(懐かしいっ!)が擦り切れるほど観て半ば暗記してしまっていますので、今では気にならないのですが、「新世紀エヴァンゲリオン」というのは恐ろしく不親切なアニメでした。 登場人物たちは思わせぶりなことばかり断片的に話していて、視聴者には全体像がさっぱり分かりません。 それだけならばまだしも、ごく基本的な用語の説明すら満足になされないのです。私の記憶が確かならば「ATフィールドとは○○である」という「解説」は本編中一度もされていないはずです。そりゃ匂わせる程度はやってましたがね。 恥ずかしながら、雑誌を読んだり周囲の人間に聞いたりしてやっと設定を理解したのです。 |
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この「欠点」にしか見えない特徴は先日公開された劇場版でもそのまんま露呈しており、劇場版で初めてエヴァを観た人からは「何が何だか分からない」といった不満が噴出したそうです。 |
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そりゃあそうでしょう。10年以上観続けている我々にだって分からないんだから。(爆) それまでエヴァに縁も所縁(ゆかり)も無かった人がいきなり90分に凝縮された「劇場版」を見て全て分かられたんでは困ってしまいます。あ〜閉鎖的。 冗談はともかく、この形式は本編の初放送当時(1995年〜1996年)にも疑問視する向きもありました。 本編を見ているだけでは何が起こっているのかも把握できず、余りにも情報密度が高く、伏線が(回収し切れなかったものも含めて)膨大に仕掛けられていてしかも相互に関係しあっているという構造です。 今では「テレビアニメとしての放送に適さない」という作品の行き場であった「OAV」という媒体が実質的に意味を成さなくなっているので余り語られませんが、本来これは「購入しないと見られない」ために「繰り返して視聴することを前提に」作られるOAV的な作りです。 毎週放送され、電波と共に消えてしまう「テレビアニメ」であたかもOAVの様な内容を含むことに対する批判もあったのです。 (*とはいうものの、80年代のOAVはそれこそ「設定遊び」に堕し、登場キャラクターが延々「設定を朗読する電気紙芝居」と揶揄される自己満足的な作品も多かったのは事実。スポンサーのしばりがゆるいことが裏目に出てしまった例でしょう) ただ、「一度観ただけでは全てを把握出来ない」ほど濃密に内容を詰め込んだり、非常に「説明不足」にしたことがカルト化に繋がった例はいくらでもあります。映画「ブレードランナー」や「2001年宇宙の旅」などはその典型。 |
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この頃は「サルまん2.0」で意気軒昂な編集家の竹熊健太郎さんは、エヴァを「パンツを脱いで踊って見せた作品」と評しています。 この「パンツ」というのは言ってみれば「自尊心」とか「プライド」みたいなもののことでしょう。 つまり、「ツッコまれる」ことを恐れずに自らをさらけ出す、という意味です。 これは、「何事も本気でやらない(様に見せかける)ことでプライドを死守する」ことばかりやってきた「シラケ世代」には清水の舞台から飛び降りるみたいな大冒険です。 庵野監督はことエヴァについて褒められても貶(けな)されてもどこか反発していたでしょ? 要は「他人に上から目線で何か言われる」ことそのものが耐えられないんですよ。それだけはなるべく回避したい。 だからけなされれば「何も分かっていない」とやり返し、褒められれば「アニメばかり見てんじゃねえ」とくさす。 |
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恐らく当時のファンは「どっちなんだ!?どうして欲しいんだ?」と思った人もいることでしょう。 正解は「放っておいて欲しい」でも「自分の考えている通りに解釈して、理解し、出来たら褒めて欲しい」のです。 去年のことですが(原稿執筆は2008年1月)、同社製作のアニメ「天元突破グレンラガン」で社長が舌禍事件を起こしました。ファンを「ケツの穴」発言して徹底的に貶(おとし)めたのです。 |
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この時良く分からなかったのは、実はこのアニメはそれこそ「オタク」と呼ばれるような人種には非常に評判が良く、WEB上には好意的な意見の方が多く流通していたのです。 にも関わらず、ごく僅かに存在する「批判」をわざわざ見つけ出しては過剰反応する…という良く分からないことをやっていて、「何故そんなヘンなことをするのだろう?」とアニメファンは一様に首をかしげたものです。 私はこの件に関して「こうではないか」と本人でもないのに邪推することは避けますが、気持ちは分からないこともない…とだけ言っておきます。 そういえばかの庵野監督も、エヴァ後の騒動で黎明期のインターネットをクソミソに叩いていたもんでした。 当の2ちゃんねらーたちなどは「俺たちの書き込みだの発言みたいなゴミを気にしちゃ駄目だよ」みたいなことを言って達観しているのだからいい気なもんです。 |
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作品を他人の目に触れる形で発表するということはそれだけで全裸になっているみたいなものです。とある作家さんは「自分の排泄物を見せ付けるみたいな行為」と表現していました。 ただ、それでもどうにか自尊心を保つ方法はあることはあります。 それが「自分でツッコミを入れる」或いは「入れておく」そして、「ツッコミを入れられても大丈夫な様にしておく」ということです。 実はここで某作家さんの個人名を上げて例示する予定だったのですが、この頃とてもいいサンプルケースが出てきたので話が分かりやすいです。 それが、絶賛放送中の「ガンダム00」(ダブルオー)。 |
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この作品についてはブログにおいて毎週評を掲載しているのですが、とにかくあらゆる要素に渡って全て「どう突っ込まれても大丈夫」な様に周到に作り込まれた凄い作品です。 いや、「凄い」というのは必ずしもいい意味だけではないんです。 というのは、余りにも用意周到すぎて何だか観ていて肩がこるんですよ。 私みたいにその意味を一つ一つ解きほぐして膝をバンバン打ちながら楽しむ様な物好きな鑑賞スタンスならば楽しめるんですけど、どこにも「語る余地」が無い。 「エヴァ」がクリエイターたる庵野監督の「むき出しの情念」がさらけ出された作品であることは論を待たないでしょう。では「ガンダム00」はどうかというと、その位置から最も遠いところにある訳ですよ。ゴテゴテと全身を「論理」で武装した状態です。 この状態ですと、確かに「みっともないところ」はさらさないで済むと思います。 しかし、放送が終わればあらゆる問題が破綻なく劇中で完結してしまっている為に、逆の意味で「後に残るもの」が全く無いんです。 分かりやすく言えばローリスク・ローリターンというところ。 ではパロディ作品を描く作者の動機とは何でしょうか? 少なくともそのジャンルに「過剰に入れ込んでいる」ということは無さそうです。 「突き放して笑いものにする」のがスタンスなんですから、はっきり言うと馬鹿にしてる訳です。 別にこれはだから作者の人間性が悪いとかそういう話ではありません。 ブラック・ジョークの典型的な例をご紹介しましょう。 私の大好きな映画シリーズ「裸の銃を持つ男」においてこんな場面がありました。 |
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映画は最初の「裸の銃を持つ男」が有名ですが、その後「21/2」「331/3」と次々に公開されました。 実は「前史」に当たるテレビシリーズがあり、邦題「フライング・コップ 知能指数0分署」でビデオ発売されています。実はこっちがムチャクチャ面白いのです。
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爽やかな青空の下、緑の草原の上に白いテーブルを設置して一家団らんをしている家族。 背後にはもうもうと白い煙を上げる原子力発電所。 そして如何(いか)にもなアメリカ紳士が自信満々に言うのです。 「原子力発電所は絶対に安全です!」 ところが、テーブルの上の犬には尻尾が三本ある…。 はい、お分かりですね。 余りにも凶悪なギャグです。 つーかこれをギャグと言っていいのでしょうか? ギャグを解説するなんて野暮(やぼ)の極みなんですが、仕方が無いのでやりましょう。 要するに「安全だ!」と自信満々に言うけども、ちっとも安全じゃねーじゃねえか!という皮肉なんですね。だって目の前の犬が漏れ出した放射能によって遺伝子異常の奇形を発症しているんだから。 こういう、「シャレになっていなくて笑えない」様なのを「ブラックジョーク」というのです。 このスタンスは、「これからの人類には絶対に原子力発電所が必要なんだ!」と熱狂的に思い込んでいる側にも「原子力発電所絶対反対!」という側にも作れないでしょう。 「突き放して笑いもの」にしているんですから。 今回は「野暮大集合」で行きますが、今回紹介する「ブロッケンブラッド」は「TS」とか、元ネタになった「魔法少女もの」そして「変身ヒーローもの」全てをおちょくり倒している作品なのですね。 例えば第1話の冒頭はいきなりこんな感じです。 |
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バズーン |
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(・∀・)…。 えーと…今回は野暮で行くと決めたので解説しますが、これは細○数○のパロディでしょう。 それから「サイババ」も入っていますね。 それこそ10年後にこれを読んだ時に自分で迷わない様に解説にリンクを張っておきます。 (Wikipediaより)。 その…要するにテレビメディアに露出しているような「自称・占い師」みたいなののうさん臭さをおちょくっている訳です。ついでに言えばサイババみたいに、定期的に現れる「自称・超能力者」なんかもね。 ちなみに日本人は、長年騙され続けてきたためかもう「UFO」あたりには免疫が出来てしまい、今では「宇宙人の乗り物」という意味での「UFO」は朝の報道番組とか、ニュースやバラエティ番組などでも完全に「馬鹿にする対象」として扱われています。 |
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「妖怪」について語っていると思えばぴったり。面白いですよ。 こういうの読んだことが無い人はかなりの衝撃だと思います(^^。 |
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これは1999年にやってくるはずだった「ノストラダムスの大予言」が大外れしたこともさることながら、その直前にテレビメディアに露出しまくった「研究家」「専門家」たちが、余りといえば余りにも奇特なキャラクターばかりだったことが暴露されてしまったということが大きいと思います。 |
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時事的な要素が強いけど読みごたえあり! |
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毎年年末にテレビ朝日でやっている「超常現象スペシャル」とかにもいるでしょ?名物のヘンテコなビリーバーの皆さんが。 もう、映像そのものが持つインパクトは何にも勝っていたみたいで、もう「ノストラダムスの大予言」みたいなインチキ本が「活字の説得力」だけで盲目的に信じられる時代は終焉してしまったんですね。 ともあれ、この「才場バズ子」は主人公たちを差し置いてなんと「変身」するんですね。 |
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…何か解説をするのもどうなのかというレベルになって来ているんですが、これは「呪文を唱えて『変身する』という絵空事」を馬鹿にしたシークエンスに他なりません。 いや、馬鹿にしているというか「これっておかしいよね?みんな」という感じでしょうか。 だって、やっていることそのものは他の「魔法少女」と何ら変わらないのです。ただ、その主体がおばさん…いや、おばあさんであること以外は。 これを観た後に、純粋に「ふたりはプリキュア」とかにのめりこめる人間がいたらそれはどうかしているでしょう。要するに「価値相対化」されてしまった訳ですから。 要するに「現実に比較されることで限りなく無価値になってしまった」ということ。 確かにこのお話では「少女」どころか「少年」が「魔法少女」に変身するんだけど、それって「おばさんが魔法少女に変身」するのに比べればマシじゃね?…という。 この「バズっと/占っちゃうゾッ」というのも、余りにも有名な「月に代わっておしおきよ!」に代表される「決め台詞」のパロディですね。 実際問題、「敵を倒す」に際してそんなことを言い放つ必要性も何もないし、第一、本編の「魔法少女」たる主人公は「決め台詞」を持ちません。 これも最初は何らかの要請があって必要とされたと思うんですよ。「決め台詞」。 ところがこれが「お約束」となり、「そういうもんだ」という「決まりごと」になって行ってしまう。これが積み重なっていくと、部外者がいきなり見た時に明らかに感覚的におかしいものになっていくんですね。 でも、中にいる人にはそれは長年積み重ねられた「そういうもの」なので真剣そのものです。 これって滑稽ですよね? しかもギャグが細かいんだまたこれが。 |
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このコマの隅っこで「目がー!」とか言っているのは「天空の城ラピュタ」の悪役・ムスカが「滅びの言葉」のエフェクトをモロに受けて目にダメージを受けた時の悲鳴のパロディ。 |
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ま、これはこの作品に限らずあちこちでパロられまくっていますが。 めげずに変身して戦う主人公に対して、必死の抵抗を試みる○木○子…じゃなくて はこんなことを口走ります。 |
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あんた地獄に堕ちるわよ |
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これに対して主人公が、 |
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とぶち切れてぶちのめす…のが第1話。最高のつかみですね。 「魔法少女になった理由」とかを第1話でやらず、まずは「典型的なパターン」から始めるなど非常に非凡なところを見せます。何しろふざけているので見過ごされがちですが、漫画としてのクオリティがとても高いんですね。 これは「ちーとも当たらん『予言』」をおちょくっているのと同時に「所詮こんな具合にその場で口からでまかせ言ってるんだろ?」という皮肉でもあります。 週刊誌の批判記事みたいに「本気で糾弾する!」とかいうスタンスではなくて、あくまでも「突き放して馬鹿にする」路線で。 この後でまた名前を出しますが、この所アニメ・漫画で多いとされている「パロディ作品」は私に言わせれば「パロディ」とは言えない気がします。 というのは、対象に対する「批評」が含まれておらず、単なる思い出話レベルだから。 恐らく「ハヤテのごとく!」に同趣旨のキャラが出てきたら「○木○子」みたいな「伏字」になったと思うんですよ。それこそこの所の「パロディ」作品は自作の作品に対して既存の別の創作物…それこそその時に流行っていた…ものを持ってきて「○○みたい」と伏字にしているだけ。 何が伏せられているか分かる人には笑えるんですが、それこそ10年後に読んでも意味不明でしょう。 これに対して「才場バズ子」は普遍性があります。 勿論、「細○数○」と「サイババ」を知っていればより楽しめるんですが、知らなくても問題ありません。それこそ10年後に読んでもその頃にはまた別のいかがわしい占い師が世の中を席巻してるでしょうから。 これが「普遍性」です。 あ、ちなみにこれは別に「ハヤテ」批判とかじゃないですからね。というか私は「ハヤテ」大好きですよ! この「ブロッケンブラッド」には「伏字」がほぼ登場しません。 にも関わらず濃厚なネタが全編に散りばめられている訳で、まあ奥ゆかしいというか何と言うか…。気付く人だけ気付いてくれればいい…というスタンスです。 「伏字」にしちゃうと「ここがパロディですよ」とこれみよがしに見せ付けている形になるので、私は余り関心しないんですね。「○ス○ートみたい」と台詞で言っちゃうか、それとも「分かる人には分かる」様にするのかでは「扱い方のレベルが違う」ことは何となくお分かりになるでしょう。 実はこの「ブロッケンブラッド」は後者。物凄くレベルが高い漫画です。いやホントに。 ネタが古いものが多いので、若い読者は知らずに読んでいる人が大半でしょう。GAINAXのアニメみたいだな。 このレビューは、「要するにその作品ってどんなんだ?」という真の意味での「紹介」が大きな目的です。 今や「TS作品(女装含む)」そのものはもう個人の財布では賄い切れないほど数だけは膨大になってきていますので、「とにかくTS作品の情報をくれ」という時代では無いんですね。 そして、「この作品は男女の入れ替わりです」だけでは到底「有益な情報」などではありえない訳です。そんなことは分かっているんですよ。 それこそ「桜の国から霧の国へ」(レビューはこちら)も「どう男女!?」(レビューはこちら)も一言でざっくり言ってしまえば「入れ替わりものです」の一言に集約されるでしょう。 |
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この表紙ではTSファンには訴求しないでしょうなあ…実はかなりの傑作 |
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ですが、それで内容を紹介したことになるか?と言えば丸っきりならない訳です。もう「入れ替わりものの漫画」そのものが貴重だった時代は終わったのですよ。 「LEGAの13」(レビューはこちら)が一体全体どういう漫画なのか?を、1ページも読んだことの無い人に分かってもらうには自分で言うのも口幅(くちはば)ったいですが、あそこまで画像を並べる必要があったと思います。 「主人公が魅力的な女装をして」でもいいんだけど、それだけではあの妖しい魅力は伝わるものではないでしょう。私に言わせれば、最低でもあれだけの情報量があって初めて「ああ、そういう話なんだ」と分かる訳です。 |
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肩の露出したセクシードレスも艶やかなレガーレさん(男)。 詳しくはこちらにて |
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そういう意味で言えば、この数コマを紹介しただけで「ブロッケンブラッド」がTS作品としてどういう位置付けの作品なのかはお分かり頂けると思います。 普通の(というのも凄い表現ですが)「少年魔法少女もの」とは全く違う訳です。その何歩も先を行って突き抜けまくっている「快作」なのですよ! なので、美少年が魔法少女にされて萌え萌え…の話ではありません。全く。それこそそういうのが読みたい人は「桜ish ―推定魔法少女 」(レビューはこちら)読みなさいと(*)。 (*「桜ish」の評内の表現と対になっています) そりゃ「強制女装」には違いないけど、「 |