SF的な“設定”
 ここはそれほど重要では無いんですが、一応SFファンですので、「タイムパラドックス」についてちょっとだけ。

 「タイムパラドックス」について知りたい方は「ドラえもん」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」などをご覧になるのが分かりやすいでしょう。
 最も有名なのが「親殺しのパラドックス」です。
 過去に戻って自分の親を殺してしまった場合、当然自分は生まれて来られない訳ですから歴史に「矛盾」が生じます。
 ですが、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の様に主人公が消滅してしまえばいいかと言うとそう簡単ではありません。というのも、自分が生まれなければ「自分の誕生を阻止する」存在がいなくなってしまいます。つまり自分は生まれるのは確定な訳です。それではこれをどう回避するのか?それが作家の腕の見せ所になります。件の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」では安田均氏によるゲームブックがその解決を見事にこなしていました。
 他にも「自分の父親を殺したと思っていたが、実は出生の秘密があり、本当は他人の子供だった」など色々あります。
 小説版「宇宙戦艦ヤマモトヨーコ」の様に「未来に起こったタイムパラドックスを修正するために過去が変えられる」という考え方もあります。このあたりの考察はラリィ・ニーヴンの「無常の月」にエッセイが載っていますので興味のある方はどうぞ。
 ちなみに「真城 悠」としてのタイムパラドックス考は「インペンティング・ディザスター」で書いた通りです。
 まあ、「ちゃらんぽらん」がウリの様なシリーズなので、そこまで真剣に考えることは無いのかも知れませんが、一応自分なりの「タイムパラドックス感」が無いと書きにくい作品ではあると思います。
 名作「ドラえもん」ではこの「タイムパラドックス」についてのスタンスが定まっていないのは広く知られた事実ですが、同じく藤子・F・不二夫先生(*)の「TP(タイムパトロール)ぼん」など、でその葛藤を垣間見るのも一興です。
(*藤子不二夫A先生と違って、名前の真中に記号を入れるのはSFファンだったF先生の趣味だそうです。フィリップ・K・ディックとかアーサー・C・クラークとかアーシュラ・K・ル・グィンとかみたいですね。)


 物語の「オチ」の付け方の方向性にも「タイムパラドックス感」が反映します。
 フィクションで「歴史介入」が及ぼす影響は大きく2種類に分かれます。
 一番考えやすいのが、「主人公の介入によって歴史が変わった」とするもの。
 そもそもドラえもんはその目的で来たので分かりやすいでしょう。映画「のび太と鉄人兵団」もこの方法が使われています。
 もう一つの考え方が「主人公たちの行動によって歴史は変わったが、「
それによって現在の歴史に近付いていく」というものです。
 具体例を上げましょう。
 ドラえもんとのび太がとある晩を境に消えた宝石を取り返して欲しい、という依頼を受けます。引き受けた二人はタイムマシンでその晩に戻り、夜通し見張ります。しかし賊は一向に現われません。
 朝まで待った二人は仕方なくその宝石を持って未来に帰ります。
 はい、お分かりですね。「宝石がなくなった」のは「ドラえもんが持って帰ったから」なのです。
 古い話ですが、TVドラマ「タイム・トンネル」がこの形態をとっていました。
 要するに物語りの中でフォスターが好き放題やっている様に見えますが、実はそれが歴史的事実だったりします(例「エイジ・オブ・アイス・ウォール」)。つまり私たちは「フォスターによって変更された歴史の中を生きている」ことになります。
 「ドラえもん」はこの2種類の歴史改変が混在しているのです。勿論、それであの名作の価値はいささかも揺るぐものではありませんが。
 「フォスター」がシリーズとしてどちらを採用するかですが
どっちでもいいです。面白ければ。

 ですが、オチで「にやり」とさせたり一気に「落とし」たりするのが「TSコメディー」とでも言うべき本作の醍醐味です。
 この駄文が新たなフォスター作品の創作の一助になれば幸いです。


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