不条理劇場 9

「四人の女」
連載第11回(にあたる部分以降)


作・真城 悠

この小説は「フィクション執筆掲示板」にて書かれたものです

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161(2003.2.16.)
 もう時間も早い。早朝という訳では無い。
 朝の九時と言えばチェックアウトまで済んでいても可笑しくない時間帯である。
 数少ない家族旅行でも、その時間帯には部屋を出ていた様な覚えがある。
 つまりはこの時間帯に部屋の外に出れば赤の他人と顔を合わせる危険性が非常に高いということだ。
 しかし、それでも尚やらなくてはならない。
 「起こさないで」の札を掛けるということをだ。
 かさかさとスカートのフチを擦りながら廊下の先端のドアの所までやってくる。
 カードキーによる開閉だが、一応回転するドアノブがついている。
 あった・・・。
 そんな所をチェックしていなかったので今気が付いたが、確かに内側のドアノブには「起こさないで下さい」という紙製の札が掛かっている。使いたいのならこれを外側に掛けろ、ということなんだろう。
 それを手に取る大野。
 こうして自分の手がアクションするところが目に入ると、嫌でもそのか細さが気になる。
 少しその場で深呼吸する。鼻から大きく息を吸い込んですー、と吐く。
 思い切ってドアを開けた。


162(2003.2.17.)
 このホテルのドアは外側に向かって開くタイプだった。

 ドアの隙間から手だけを外に回してノブに引っ掛けることが難しい。
 何と言ってもドアに近付きにくい。
 本当にチュチュのスカートというのは大きい。
 身体が折れそうなほど細いのが余計にそう感じさせる。
 自分の身体がこんなに細いというのも新鮮である。
 白鳥さんが起きたときにはこの格好だった。
 つまりは、チュチュで布団に入って寝ていたということである。
 そのせいか、チュチュのスカートはあちこちが歪んでいた。
 だが、それでも尚壁に必要以上に近付いてスカートを折り曲げたくなかった。
 ドアを45度くらいまで開ける。
 そして上半身をせり出させて裏側のドアノブに手を伸ばした。
 その時だった。
「きゃっ!」
 という声が背中側から聞こえた。
 慌てて振り返る。
 悪夢だった。
 そこには二十代半ばと思われる若い女性が二人連れ立って歩いていた。
 目が合った。
 女性の一人は口に両手を当てて固まっている。
 み、見られたっ!!


163(2003.2.18.)
 い、急げっ!

 大野は大慌てでやっとドアノブに札を引っ掛けることに成功した。
 そりゃっ!
 秒で上半身を引っ込めようとしたその時だった。
 目の前でスローモーションの様に悪夢が進行していた。
 折角掛かったと思ったその紙製の札がはらりと廊下の床に落ちてしまったのだ!
 ええーい!もお!こんな時に!
 とにかく掛けないと駄目だ!そんな所まで察してくれるもんか!
 しかし、どこかをぶつけたのかなんなのか、廊下の反対の端っこまで飛んでしまっているのだ。
 こうなりゃヤケクソだぁ!
 大野はもうそのバレリーナぶりを全身さらすことを覚悟の上でぴょい、とドアから飛び出した。
「きゃーあ!」
 なんて面白がっている声が聞こえてくる。
 う、うるさいうるさい!
 かああっ!と顔が真っ赤になるのが分かる。
 バレリーナ姿を・・・若い女性に見られるなんて・・・。
 でも、今は肉体が女である。しかも自分が見ても呆れるほど細いし、胸だって立派なんだ!間違っても男には見えないだろう。
 大急ぎで紙製の札を・・・って見えない!
 そうなのである。半径で一メートルにも感じる大きなスカートが床に対しての視線を完全に遮っていた!
 仕方ない。
 大野は両手で身体の前のスカートを無理矢理押し下げ、かがみ込んで強引に床への視界を確保する。
 あった!


164(2003.2.19.)
 背後では更に何か声が聞こえる。

 そうなのだ。よく考えるまでもなく、このスカートでかがみこむということはお尻の方向にいる人間にモロにパンツを見せる様な格好になってしまうのである!
 女性と言えどもそんなものを見せられればドキッ!とするだろう。
 ましてや、よほどのバレエファンでもない限りこのバレリーナのスタイルは見慣れていないから、それも実に刺激的なのである。
 だが、そんなことを言っている場合では無い。
 視線の先に札を見つけてから一直線に手を延ばし、掴みあげる。
 跳ね上げる格好になったドアがゆっくりと落ちてくる。
 バレリーナこと大野は外側からそれをノブで掴む。
 今度は外すわけにはいかない。確実に嵌めなくては。
 だが、勿論片手でノブを掴んだままでは嵌められない。
 この瞬間、ちらりと声のした方を向く大野。
 またもや視線があった。
 二人組の若い女性は顔を見合わせながら珍しいものでも見る様な目でこちらを見て面白がっている。
 完全に外に出た格好になっているので、もう全身見えているはずだ。
 おあつらえ向きに髪飾りまでしてしまっている今の俺はもう“全身バレリーナ”である。唯一違うとすれば髪の毛がOLの時と同じショートカットであることくらいだ。
 もう一秒でも早く部屋の中に飛び込むしか無い。
 これが男だったらちょっと問題だったかも知れないが、今の自分は間違いなく女である。肉体的には。
 まさかあの女性たちも“バレリーナの格好をした女がいた”などとホテル側に通報はすまい。
 一瞬ノブから手を離す。
 ドアのフチを掴んで今度は確実に嵌める。
 よし、これでいい。
 だがその時、剥き出しになった背中に寒気が走った。
 つるりと指が滑った。
 ドアのゴツン!という重い音が響いた。


165(2003.2.20.)
 そんな・・・。
 目の前が真っ暗になった。
 閉じ込められた!?
 いや、そうじゃない。締め出されたんだ!!
 つつーっ!と血の気が引いていく。
 な、なんてことだ!もう時間的にも天下の往来と変わらないホテルの廊下に所持品一切無しでバレリーナ姿で放り出されてしまったのか!?
 今度は反対側に何か人の気配を感じた。

 見るまでも無かった。
 誰かがそこにいるのである。
 何人か組みたいだった。見なくてもいいものをまたもそっちに首を回してしまう。
 最悪だった。
 最も出会いたくないタイプの人たちがそこにいた。
 全員が声を失って固まっている。
 家族だった。
 父親と母親。小学生になるかどうかという男の子と女の子。
 そんな・・・。
 こんな所でコスプレまがいの格好をしているなんて子供に一体なんと言えばいいのか。
 ど、どうする?どうすればいいんだ!?
 このまま駆け出していってどこかのトイレにでもしけこめばいいのか?白鳥さんたちが帰ってくる時間帯の予想はつくんだからその頃になって出れば・・・ん?ちょっと待て。白鳥さんたちは俺たちが部屋にいることを前提に出て行ったのだ。つまり自分と花嫁さんがいた部屋の鍵を持っていない!
 インドアロックだ!
 鍵を中に置きっぱなしにして閉めちゃったんだ!
 もう最悪どころじゃなかった。
 唯一の可能性は、花嫁さんが気が付いて内側からドアを開けてくれることだが、それこそ最も低い可能性の1つに他ならない。
 ホテル側に言ってドアを開けてもらうなど論外である。あの部屋の中身を見せる訳にはいかない。
 そもそも自分がホテルマンだとして、フロントにバレリーナの格好でやってくる女にマトモに対応出来るかどうか・・・。


166(2003.2.21.)
 
天の助けだった。
 よく見るとドアは完全に閉まっていない!
 足元を・・・見られないが、恐らく慌てて出た際に入り口のストッパーを蹴っ飛ばしてそれがドアの隙間に挟まったのだろう。
 もう何がどうなっても構うもんか!
 大野は重い鉄製のドアを引きちぎらんばかりに思い切り手前に引くと、そこにダイビングしそうな勢いで飛び込んだ。
 重いのですぐには閉まらないものを、渾身の力を込めて手前に無理矢理引き寄せる。
 この数秒間、いや一秒とちょっとの間が実に長く感じられた。
 ドアの間にスカートが挟まらない様に、ゴツンという音をさせる。
 ピッ!という音がしてロックされたことが知らされる。
「・・・ふう・・・」
 その場に倒れこみそうになった。
 床が濡れていなければ間違いなく倒れこんだだろう。
 その場で自分の荒い息遣いだけが聞こえる。
 好むと好まざるとに関わらず、ドアの外の声が聞こえてくる。
「ねえねえ!見た今の!」
「バレリーナよバレリーナ!」
「あたし間近で見たの初めて!」
「何なの!?何やってんのこんな所で!?」
「知らないわよ!」
 字面は討論しているみたいだが、実に面白そうである。
「コスプレマニアなんじゃないの?」
「女だったよね?」
「ニューハーフかもよ!」
 た、確かに最近のニューハーフはよく出来て・・・って違ーう!
 ニューハーフじゃねえよ!男だけど。


167(2003.2.22.)
 
女性二人組の声はドアの正面までやってきた。
「ホラ!入るなって」
「特殊なプレイなんじゃないの!?」
 好き放題の言われ様である。
 間違いなくあの二人は友人・知人に「こんな面白い話があった」として、“朝のホテルで部屋から飛び出してきたバレリーナ”の話を吹きまくるだろう。
 もしも自分が目撃者の立場だったとしても同じだろう。
 こんな美味しい話があるかってなもんだ。
 その二人組の声はすぐにドアの前から離れていった。
 何しろそのドアの中には“コスプレマニア女”本人がいるのである。不要に刺激しても仕方が無い。
 気の毒なのは家族の方である。
 ごく普通のビジネスホテルでのバレリーナは実にそぐわない。
 いや、バレリーナなんて舞台の上以外ではどこともそぐわないに決まっている。
 あの父親や母親は“純真な”子供に対して一体何と言って釈明するのか。
 “釈明”というのもおかしいが、感覚としてはそんな感じである。
 決して淫らな格好という訳では無い。
 それこそバニーガールの格好で飛び出してきたのなら間違いなく何かのマニアという感じだが、バレリーナである。
 ・・・何とも中途半端である。
 決してマニアとか淫らという感じでは無いが、さりとておしゃれの一種という訳にもいかないだろう。
 それに、多くの肌を露出させ、下着にも見えなく無いチュチュはその清楚な印象とは裏腹にそれはそれで淫靡な妄想にも片足を掛けている。その上“大人”のチュチュというのは実に微妙なのだ。
 家族の声は聞こえなかった。
 そうなのかも知れない。
 何と言うか実に話しにくいだろう。
 見てはいけないものを見てしまった様な気持ちなのでは無いか。


168(2003.2.23.)
 
子供はどうか知らないが、いい年をした大人・・・つまりはあの夫婦だ・・・がコスプレまがいの女が部屋から出てくるのを見れば・・・連想するのは1つだろう。
 特殊な服装の趣味・・・連想してセックスである。
 それもちょっと普通でないそれだ。
 子供には説明しにくいことこの上ない。
 だが、不可抗力だ。勘弁して欲しい。
 というかこっちだって被害者なのである。
 夫婦には頑張って上手く子供の追及をかわして欲しいもんだ。
 ・・・それにしても、男の子の方はヘンなトラウマにならなきゃいいけども・・・。
 大野はやっと頭をドアから離した。
 念には念を入れてノブをそのまま回す。
 当然開かない。
 これでよし・・・。
 入るなという札も掛けたし、当分は安全のはずである。
 安全・・・本当に安全なのだろうか。
 昨日から激動が続いていて、1つのことも落ち着いて考える事が出来ていないのだが、昨日の夜、間違いなくここで襲われかけたのである。
 何と言うか、ドサクサに紛れて結局白鳥さんに言い出すことは出来なかった。
 もしもそれを言ったら・・・何か対策を考えてみてはくれただろうか?
 白鳥さんに何から何まで依存するのは得策では無いけども、実質的なリーダーである。
 ・・・よく考えるとそれは難しい。
 何しろOL、女子高生、バレリーナ、ウェディングドレスという面々である。
 前者二人はなんとか外出できる物の、後者二人が絶望的に辛い。
 そして今は安易に服装交換に応じてしまったばかりにバレリーナ姿の自分がいる。服装状況がリセットされる度に外出出来るのは二人になってしまうのだ。
 つまり、この部屋が危険だとした所で、バレリーナを連れまわせる筈も無いので置いて行かれるのは変わらないのだ。


169(2003.3.2.)
 
そして、みんなが揃って外出出来るための着替えをまさに買いに行っているところなのだ。

 無駄なところは何一つ無い。
 しかし・・・せめて部屋を分ける位は出来たかも知れない。
 つまり花嫁さんをこっちの部屋、そして自分は白鳥さんたちがいた部屋にという訳だ。
 駄目だ。
 それではまた一人っきりにされた花嫁さんが何をするか分かったものじゃない。
 ・・・結局駄目じゃないか。

 自分がこの部屋に残されたのは、暴走する花嫁さんを監視する意味合いもあるのだ。いずれにせよこの布陣には変わり無い。
 しかし・・・、バレリーナという服装はあるものの、何をするか分からない花嫁さんと一人っきりにするリスクは考えてくれなかったのだろうか?
 まあ、誰を残すにしても・・・って買出しに二人で行くこと無いじゃん!
 ・・・仕方ない。
 色々と不満はあったものの、渋々部屋の中の方に戻る。
 ベッド近くまで行かないと床が濡れていて座れないのである。
 遠くから見る花嫁さんは、まだ寝ていた。

 ・・・一体誰の為にこんな苦労をしてると思ってんだ・・・。
 まだ怒りが収まらない。
 てゆーか疲れた・・・。
 大野はユニットバスから遠い方のベッドにチュチュ姿のまま倒れこんだ。
 一応スカートが潰れない様にちょっとは気を使ったけど、正直どうでもいい。
 ・・・身体のあちこちが痛い。
 “強度”を重視したチュールが皮膚をちくちく刺激するからである。
 何度も言うが、これは“踊るため”の衣装である。
 気持ち良く眠るためのものでは無い。
 ふうー、と大きく息をつく。
 枕に遮られて顔の周辺を自分の吐いた息が回る。
 全く・・・何なんだ一体・・・。


170(2003.3.9.)
 
夢の中にいた。

 その瞬間に色んなものが交錯した。
 普通だったらこんな状況で眠れるはずも無い。
 ちくちくする全身のあちこちに加えて、べっとりと濡れたトゥシューズの感触が気持ち悪くて仕方が無い。
 だがそれでも尚意識を失えたのは、心底疲れていたからだろうか。
 だが、“それ”に気が付いた。
 何かがいた。
 それに気が付いたのはまさに“動物的なカン”という奴だった。
 目の前にいたその“山”がこちらに雪崩をうって倒れこんできた。
「うわわわっ!」
 咄嗟に後方に飛びのく。
 いや、“後方”ったって今のままで熟睡していたのである。
 気が付いたらベッドを目の前に尻餅をついていたのだ。
 気やがった!
 また来たんだ!あの謎の暴漢魔が!
 一瞬頭をぶるん!と振る。
 お尻の下の床は幸いにも濡れていなかった。
 混乱した。
 どうしていいのか分からない。もう八方塞がりだった。
 内側から鍵の掛かった閉鎖空間で襲われたとなると、もう絶体絶命である。
 ましてやここは「入るな」と札を掛けてあるのである。
 もう命あってのモノだねである。
 ばれようとどうなろうと、逃げるしかない。
 白鳥さん、城さんゴメン!
 ・・・しかし昨日といい今といい、この賊は一体どうやって入り込んだんだ?
 考えている間にそれが目に入った。


171(2003.3.16.)
 
目の前に仁王立ちしていたのは・・・ざんばら髪を振り乱した花嫁だった。
 まさか・・・まさか・・・。
 大野の頭を最悪の推理が駆け抜けていった。
 昨日襲って来たのって・・・花嫁さん?・・・なのか?
 次の瞬間には花嫁さんがベッドを乗り越えんとして乗りあがろうとした。
 もう間違い無かった。
 犯人は花嫁さんだ!
 何故だ?どうして・・・。
 この一瞬に大野の頭の中には昨日の夜のことが思い出されてきた。
 あの時、OLの制服を剥ぎ取られ、そして・・・。
 胸を舐めまわされたのである。
 その時にお腹についた相手の唾液の感覚が蘇る。
 あれが・・・あれが花嫁さんの犯行だったと言うのか!?
 背後は壁だった。いや、窓だった。
 部屋の奥に向かって逃げることは出来ない。
 はめ込み式の窓を突き破って飛び降りるしか無いのだ。
 畜生・・・なんて・・・なんてこった!
 女になってからこっち訳の分からないことは続いている。でもそれなりに楽しいこともあった。何よりちょっとした修学旅行気分だった。衣装交換だって何のかんの言っても仮装大会みたいで面白かった。
 しかし・・・命が無くなってしまっては終わりだ。
 修学旅行気分どころの話しではない。
 とにかく何が何でもこのクソ花嫁を回りこんでこの部屋から逃げ出すしか無い!
 腹は据わった。


172(2003.3.23.)
 帰趨が決したのは次の一瞬だった。
 冷静になればそれは明白だった。
 激しく踊るためにの衣装と、純粋な礼服・・・特に軽い身動きに全く向いていないそれの人間同士が追いかけっこをすればどっちが勝つか・・・。
 ベッドを乗り越えて襲い掛かろうとした花嫁は、自らのスカートに躓いて前方に倒れ伏した。
 起き上がったこちらはベッドの脇を回りこんであっという間に出口がわの廊下に向かって突進した。
 花嫁さんはまるっきり付いてこれていなかった。
 もう自らの身体の動きすら全く制御出来ていなかった。
 一旦あのスカートの量で転べば立ち上がることすら困難だろう。普通に歩くことも難しいのに走って相手を追いかけることが出来るはずも無い。
 昨日の夜とは状況が違うのだ!
 目の前のドアに手をついた。
 後はこれを開けて出て行くだけだ。
 その時だった。
 昨日の夜にも経験したそれが耳に飛び込んできた。


173(2003.3.24.)
 それは泣き声だった。
 何と言うか・・・一応泣き声なんだが、そこにはいろんなものが混じっていた。
 火が付いたかの様な号泣が沸き起こったかと思えば、呼吸困難を起こしそうな嗚咽が続き、可と思うと獣の様な咆哮が続く。
 今すぐにでも飛び出ていきたかったのだが、この格好ではそれもままならない。命に比べれば身元不明のコスプレを満天下に晒す事も苦にはならないが、命に別状が無いとなれば当然わが身の方が可愛い。
 大野はバレリーナ姿でそのまま立ち尽くしていた。
 全く・・・泣きたいのはこっちだ。
 一体何がどうしてこんなことになってるんだ・・・?
 喉もと過ぎれば、という奴である。さっきまで生き死にの堺をさまよっていた大野だが、こうなると途端に花嫁さんに興味が湧いてくる。
 ・・・ひょっとして・・・予想・・・あくまで予想ではあるが、この花嫁さんって、性格のタイプからしてみれば白鳥さんや城さんよりも・・・自分に近いんじゃないだろうか。
 勿論大野はあそこまで子供っぽくないし、あそこまで周囲の人に迷惑は掛けていない・・・積りである。
 しかし似ている。
 そんな気がした。
 次に自分が取っていた行動は、とても信じられないものだった。


174(2003.3.25.)
 気が付くと自分はとてとてとし綱いに向かって歩いていた。

 飢えた狼の手に血の滴る肉片と一緒に手を突っ込むみたいな行為・・・に見えただろう。
 何故か大野には根拠の無い自信があった。
 花嫁さんは大野の側のベッドで泣いていた。
 つまりさっき自分が寝ていたベッドでは無い方だ。
 濡れてるから気持ち悪いのか?
 全く現金なワガママ娘である。
 女性には失礼な言い草だが、“女の腐ったような”という奴だろうか。意味が違う気がするが別にいいや。
 大野は片手で乱暴に椅子を引き寄せると、花嫁さんを見下ろせる様にどっかと座った。
 つくづくバレリーナの衣装ってのは生活とは遊離している。何しろ全方向にまんべんなくスカートが伸びているのである。椅子に座るとき、人間は背中側が一番椅子の背中に近付く。当然だ。
 つまり背中側のスカートが捲れあがって邪魔で仕方が無いことになる。
 だが、そんなこと構うもんか。
 そのまま上半身を倒して両方のももにひじをついた。もちろんがに股になってである。
 その肘もスカートの上につくしかない。まったくうざったいったら無いが、これも宿命である。
 花嫁さんは仰向けになって寝ていた。
 いや別に寝てる訳じゃ無いだろうが、片手て目を隠してぐったりしていた。
 ドレスは無茶苦茶に乱れていた。
 息が荒い。
 あれだけ泣けば喉がガラガラだろう。こっちだって号泣したこと位はある。


175(2003.3.26.)
「・・・気が済んだかい?」

 声には違和感があるままだが、何とか自分を出した積りだ。
 泣き疲れたのか部屋の中は静かである。
 大野は時計を見た。
 ニつのベッドの間にあるスタンドの台にデジタル時計がある。そこには10:20の表示がある。
 随分寝てしまったらしい。もうすぐ白鳥さん達が帰ってくる。
 大野は溜め息をついた。
 これだけヤケクソやればちょっとは気も済んだんじゃないだろうか。勝手な推測だが。
 声は聞こえている筈である。
 この調子だと先ほどの白鳥さんたちの会話も狸寝入りで聞いていたかも知れない。
「・・・」
 何か言った。
 喉がかすれているのか、何と言ったかは分からない。
 これだけの大騒ぎの最中、この人はドレスを脱いでいない。
 また暴れだしても何とかなるな、と大野は思った。
 拘束具をつけている様なものである。振り切るのは簡単だ。
 確かに映画なんかではウェディングドレス姿で走っている花嫁さんを見るが、巧みにスカートを持ち上げている。
 何と言うか、あれも一種の“技術”だろう。こちとら全員が元男である。女装すること自体が始めての連中ばかりだ。
 そんな技術なんて存在することも知らないだろう。
「・・・何が目的なんだよ・・・」
 間の抜けた質問に違いなかった。やりたくてやってんじゃないだろうからだ。
「あんたさあ・・・」
 予想通りかすれた声だった。
 花嫁さんが口を開いたのだった。


176(2003.3.27.)
 大野は唾を飲んだ。だが、花嫁さんには攻撃してくる気配は無かった。
「・・・何だよ」
 声だけ聞くとまさしく女同士の会話である。
「あんた・・・昨日のOLだよな・・・」
 モノも言わずにぶん殴りたい気分である。そんな質問に答えてやる義務があるのか?
「・・・だったら何だよ」
 こっちも見ずに言う。
 少し首を回してこっちを見てくる花嫁。
 大野は足元にいる様な格好である。
 ちらりと見えたその顔はヒドイものだった。
 目の周りの化粧が落ち、所謂「パンダ」状態になっている。瞼が二つに見えるが、恐らく付けまつ毛がずれているのだ。
「ふ・・・」
 薄笑いを浮かべる花嫁。
「いい気な・・・もんだ・・・」
 声がかすれてロクに発音出来ていない。
「・・・何だと?」
 怒りのあまり四肢が震えてくる。
「何だよその格好は・・・女装大会か?」
 ・・・ちょっと痛いところを衝かれた。何しろこの局面で衣装を交換する必然性は皆無だ。衣装交換を持ちかけられて、まるっきり好奇心が無かったと言えば嘘になる。
「・・・勝手だろうが」
 その通り。勝手である。
 首を振っている花嫁。
 遂に大野がキレた。


177(2003.3.28.)
「あのなあ!あんた一人がこんな目に遭ってるんじゃねえんだ!」
 それは全く正直なところだった。
 大変なのはみんな一緒なのである。確かに急に気が付いたら女になっていた上にウェディングドレスなんて扮装をさせられていたのだ。しかもそこに持ってきていくら着替えても朝になったら花嫁姿ではヤケクソにもなりたくなる。
 だが、それはみんな一緒なのだ。
 こちとらOLだし、白鳥さんに至ってはバレリーナなのである。
 この花嫁の行動にしても挙動にしてもあまりにも身勝手である。
「じゃあお前のその格好は何だ!お前昨日までOLだったじゃねえか!何をバレリーナの格好してめかしこんでやがる!この女装趣味の変態野郎が!」
 唇の鮮やかな赤さを歪めてののしる花嫁。
 見たくない光景だった。


178(2003.3.29.)
 大野は言いよどんだ。
 ここで大声を上げて同等に張り合ってもいいのだが、それには益が無い様に思われたのだ。
 別に花嫁さんのことを気遣った訳でもない。
 大野は前かがみになっていた姿勢を起こした。
 背中側のスカートが邪魔なので背もたれに完全に身体を預ける事は出来ないが、背筋を伸ばす。どうもこの衣装は自然と背筋が伸びてしまう。きっとバレリーナには猫背の人なんていないんだろう。知らんけど。
「落ち着きなよ」
 意外な言葉だった。自分の言葉なのに。
「何だと?」
「俺を変態だと言うのならそっちだって」
「あんだと貴様あ!」
 中身は間違いなく男なのだろうが、ウェディングベールを引きちぎられ、髪を振り乱した女の外見はひどくすさんだものを感じさせる。
「・・・いつまでも元気だなあ。あんたは。羨ましいよ」
「・・・」
 膨大な量のスカートのお陰で立ちにくい。花嫁は言葉は相変わらずだが、もう直接攻撃の意思は無いみたいだった。
 お互いを見詰め合ったまま、奇妙な沈黙が訪れていた。


179(2003.3.30.)
 その沈黙はどれくらい続いただろうか。
「・・・残りの二人はどうしたんだ」
 ガラガラのかすれ声で小さく花嫁が言った。
 すう、と鼻から息を吐き出すバレリーナ姿の大野。
 正直、そんなに偉そうに聞かれても答えてやる義理は無い。
 だがもうこいつと論争するのは疲れていた。
「着替えを買いに行ったよ」
「じゃあ、残りの連中も」
「そうだ」
 また沈黙が訪れた。
 それだけで状況を推測するのには充分だった。花嫁は自分に起こった出来事が残りのメンバーにも起こったことを確認したのだった。
 何か話した方がいいよな・・・。
 大野は力なく考えていた。
 これだけエキセントリックな挙動を繰り返す問題人物である。少しでも落ち着かせるために何か話していた方がいいのではないか。
 しかしまあ、聞きたいことは積み上げれば富士山くらいある。何から聞いていいやらサッパリだ。どうして自殺しようとしたのか、何故寝込みを襲って相部屋のこのオレにレイプまがいの行為までしたのか。
 だが、疲れきっているのは「花嫁さん」も一緒だった。
 片腕だけ手袋を毟り取っているので素肌が見えている。
 白魚の様なその美しい指先でつるつるのドレスの表面をなでている。
 まるでおめかしして貰った子供がダダを捏ねて泣いて、その後疲れきっているみたいだ。


180(2003.3.31.)
「どうしてだい?」
 かなり経ってから大野は言った。
 かなり色んな含みのある質問だった。
 背もたれに背中を預けられないので疲れる。早くチュチュを脱ぎたい。
 大野だって男だから女の衣装には興味がある。着てみたいとだって思う。ああ思うよ!思って悪いか!
 ・・・だが、それはあくまでイベントというかおふざけの範囲である。こうしてバレリーナのチュチュなんて浮世離れした衣装を着っぱなしというのは想像以上に疲れる。
 気を遣うのである。
 そもそも“よそいき”の一張羅なんぞ持たないフリーターだが、もしもめかしこんでいたらさぞかし不自由だと思う。
 大野は性格的に食いカスこそ広げないのだが、着替えはそこらじゅうに積みあがっている。
 積極的にゴミを撒いたりはしないが、滅多に掃除機もかけないのでホコリは積もっている。
 それほど清潔とは言えないそうした部屋にはめかしこんで寝転ぶことすら出来やしない。
 ・・・大分違う気がするが、今の状況もそれに似ていた。
 こうなるとチュチュのデメリットがじわじわと精神をさいなむ。
 固いスカートを固定する為にごわごわチュールの肌触りがちくちくと痛い。
 2月の寒気が剥き出しの肩や腕を攻める。
 下着みたいな格好が柔肌に食い込む。
 何と言っていいか分からないが、独特の素材から立ち上る匂いは、決して心地よくない。ましてや風呂場での大騒動の直後である、ぬめりと濡れた衣装はなんとも気持ち悪い。
 そしてそこに半端にかいた汗による、何とも言えない“女の体臭”がない交ぜになる。
 ・・・一刻も早く脱ぎたかった。
 白鳥さんはこの格好のまま一昼夜過ごしたのである。しかもこんな屋内なんかでは無く、薄ら寒い車内でだ。それだけでも尊敬に値する。
「・・・」
 花嫁さんは何か言いたげだった。
 言葉は届いているみたいだ。
 一応“仲間”には違いない。
 毎日花嫁のアクセサリーを算出する“金の卵をうむがちょう”である可能性が高いのだ。味方につけられれば・・・。
 大野は少し期待した。