「華代ちゃんシリーズ」29


「子供の日」その後 第2回
作・真城 悠

*「華代ちゃんシリーズ・番外編」の詳細についてはhttp://www.geocities.co.jp/Playtown/7073/kayo_chan02.html を参照して下さい

*本作は「華代ちゃんシリーズ28「子供の日」」の「後日談」となりますので、是非そちらを先に読まれてください。

 また、「能天気な娯楽作」を目指していた同シリーズにあって、敢えて後味が悪くなる描写をする可能性がありますので、ご了承ください。

第1回

 自分で偉いなあ、と思った。
 何故って、自主的に関係を修復しようとしたからだ。
 ひろみは制服姿のまま階下に下りていった。
 靴下を履いた状態で階段を昇降するのは久しぶりだった。
 何故か制服姿の方がいいと思った。
 本当はまだ少年である。10年生きていなかったはずの“ひろみ”は、この数ヶ月で“女”という以前に“大人”になったかの様だった。
 制服姿の方がいいと思った。
 何と言うか、色々と“決意”が示せると思ったのだ。
 それに・・・親にとっては「娘の制服姿」というのはそれで感慨があるはず・・・。
 全くこんなことまで考えが及ぶというのはなんとも老成しているというか・・・。

 ともかく両親に会わないと、と思った。
 制服は綺麗に整えられていた。
 新調したかの様に綺麗だった。
 すぐに分かるのだが、同じ服を毎日延々と着続ける“制服”のスカートのお尻の部分はすりきれてテカテカになってくるものだ。
 制服のある小学生、或いは中学くらいだとすぐに成長してしまう為に学年の低い時はダブダブの制服を着せられることが多い。
 だが、高校生位になるとそこまで急激に成長はしない。もう第二時性徴も終わっている。
 よって制服は体形にぴたりと合って無理が無かった。
 太りにくい体質のお陰で3食昼寝つきで延々食っちゃ寝を繰り返して来たひろみにも隙間無く密着するかの様だった。

 この制服はきっとあつらえてくれたものなのだろう。
 ひろみは分かっていた。
 何しろ初日に暴れた際にびりびりに破いてしまっていたはずだからだ。
 明確な記憶は無いのだが、そうだったと思う。
 制服というのは何年も着続けるので非常に丈夫に作られている。それをびりびりにしてしまったのだから“火事場の馬鹿力”みたいなものが相当に出ていたのだと思う。
 あの「運命の日」については・・・今はなるべく思い出さないように努めていた。
 もう後戻りは出来ないのである。
 直後にはかなり考えた。
 あの日に腹痛でも起こして学校を休んでいたりすれば良かったのかと何度も思った。
 でも・・・もう良かった。
 前に進むしか無いと思った。
 今のひろみには、そう思えるだけの精神の余裕があった。

 膝下20センチはありそうなセーラー服・・・しかも真っ赤なスカーフが背中から三角に顔を出している・・・なんてちょっと今時の高校生では珍しい制服だろう。
 でもそれがよかった。
 あの幼稚園児みたいな短いスカートは嫌だったからだ。
 こうして着て見ると“制服”と言ったって大した物ではない。
 ズボンが、少々デザインが変わろうと着心地なんて大差が無いのと同様、スカートだってよっぽど長さでも違わない限りそんなに着心地なんて変わりはしないのだ。
 ここ一週間ほどスカート三昧で、しかも後半には下着まで身に付けてしまったひろみには、制服を着る事自体は簡単だった。
 しかし・・・とは言う物のやはり特別なものがあった。
 “制服”というのはとりわけ着る側の“資格”が問われる。
 選ばれた者しか着られない。
 それが制服である。
 しかも職業に関わる制服と違い、学生の着る制服は“本物”であっても数年しか着る事を許されない孤高のものなのだ。

 もう覗くのに慣れてしまった鑑に、制服を身に纏った姿を映してみる。
 ・・・まあまあなんじゃないだろうか。
 もう鏡を見て女が映っているのには慣れた。
 というか“慣れた”と思い込むことにした。
 清潔感があった。
 伸び放題だった髪の先が若干不揃いである位であとはまあまあだ。
 引きこもりと言っても、毎日お風呂には入っているし、学校に行っていないだけで生活はしている。

 ひろみの母親は専業主婦だった。
 だからいつも家にいる。
 にも関わらずひろみが引きこもるのを許してきていた。
 部屋にはおつも食事を差し入れてくれたし、毎月の小遣いもくれた。
 相当に最初の暴れっぷりが効いていたみたいだった。
 その後も数週間に渡って“暴君”ぶりを発揮していたのだから、ひろみが事実上の“王様”になってしまうのは仕方の無いことだったかもしれない。
 出会いは突然にやってきた。

 ホコリ1つついていない漆黒の制服に真紅のスカーフと純白の三本線が映えている。
 そして何より惚れ惚れするほどの黒い髪としみ1つ無い透き通った肌が、実に初々しい“女子高生”がそこいにた。
 母親は衝撃を受けた。
 ・・・らしかった。
 その場で硬直していた。
 たまたま何も持っていなかったのだが、もしも何か持っていたら取り落としていただろう。
「母さん・・・」
 久しぶりに口を付いて出た言葉だった。
 次の展開は予想できなかった。

 久しぶりに正対した母親は何も言葉を発しなかった。
 その場に膝をついた。
 母親はその場に泣き崩れてしまったのである。
 ゆがみ1つないスカートをはためかせながら駆け寄る娘。
 涙がこぼれていた。
 一緒に泣いていた。
 意味は分からなかった。
 でも自然と涙がこぼれていた。
 その場で手を取り合い、母と娘は1時間以上泣き続けた。

 やっぱり恥ずかしかった。
 母親はひとしきり泣いた後、ココアを入れてくれた。
 ひろみは台所のテーブルに座っていた。
 ・・・脚が寒いな。
 実はひろみはスカートを履くことには慣れていたものの、スカートで脚だけの椅子に座るのはほぼ初めての経験だったのだ。
 スカートは“腰”で履く。
 よって椅子に座ると、お尻のカーブに生地を取られてしまい、少々長いスカートでもふくらはぎのあたりは剥き出しになるのである。
 前方は相変わらず膝下20センチ以上あるのである。
 妙なものだと思った。
 女なら小さい頃から慣れているこの感覚も、ひろみはこの台所での体験が初となった。

 “恥ずかしい”というのは、何も女装姿を見られることに対してだけでは無い。
 なんというか、家族の間だけに漂う“気恥ずかしさ”というか・・・。
 やっぱり母親は自主的な制服の着用は、学業への、引いては社会生活への復帰と従えている様だった。
 勿論、ひろみもその積りだった。
 言葉の端々にそれを確認しながら、止め処ない雑談を延々繰り広げた。
 ぎこちなかった会話も、段々しょーもないワイドショーの話なんかになって行き、たまに爆笑した。

 母親の話で、“女の子なんだから”みたいな単語が漏れる度に、“うーん、僕って男の子なんだけどなあ”とは思った。
 だが、それは口には出さなかった。
 出せばこの人は傷つき、悲しむに違いない。
 それを斟酌出来る程にひろみは“大人”になっていた。
 気が付くとトンでもない時間が過ぎていた。
 それはこれから、合計したら一体何時間になるのか分からない“母との馬鹿話”の最初の体験だった。

 まだいきなりは父親と対面は出来なかった。
 何と言っていいのか分からなかったからだ。
 だから母親に橋渡しになって貰うように、なるべく遠まわしで頼み込んだ。
 母親はそれについては快諾してくれた。

 やっぱりひろみにとっては母親の方が“近かった”。
 ひろみにしてみれば最大限の譲歩だった。
 勝手な話ではあるが、ひろみにしてみればこんな運命に巻き込まれながら、ここまで自主的に順応したのである。その努力が報われて、祝福されるのが当然というのが言い分だ。
 だが、これだけのことをしでかしたのである。
 その社会的な影響は自覚している。
 決して良い事だなんて思っていない。でも仕方が無かったんだ。

 面会は母親立会いの元で行われることになった。
 ワイドショーと一緒に“昼メロ”も見つけていたひろみだったが、娘と父親の相克は現在ではかなり深刻みたいだった。
 ひろみのうちには姉はいなかったし、自分が“年頃の娘”として父親に相対することになるなんて想像も付かなかったから、どう振舞っていいか分からなかった。
 でも・・・制服を着込んでいた。
 あざとい計算があった訳では無い。
 別に父親を制服の魅力で篭絡し様としている訳でもない。
 何と言うか・・・学業復帰を決断するのに制服を着て現われるのが一番効果的なんじゃないだろうかと思っただけである。

 学業復帰を決心してからも、なかなか状況を整えることは出来なかった。
 以前に、教科書を眺めたこともあったけど、分からなくてすぐに投げ出していた。
 今はそれよりもとにかく状況を整えるのが先決だった。
 いつまでも引きこもりでいい訳がない。
 他の家はどうなのか知らないが、ひろみとしては父親とも良好な関係を保っておきたい。
 大体、父親がいないと食えないでは無いか。
 どうしてその当たり前の認識に世間の多くの娘が帰結しないのかが不思議だった。
 それは、少年という年代ではあったものの、いずれは社会を背負って立つ“男”であったことと関係があるのだろうか。

 唐突に父親は現われた。
 地味だった。
 ひろみは久しぶりに父親をまともに見た。・・・少しだけ。
 やはり正対することは難しかった。
 その顔を一瞬確認してすぐに下を向いてしまう。
 そこには自分の手と、スカートの襞の海が広がるばかりだった。
 ひろみにはしばらく状況が判らなかった。

 それは父親の側が居間で突然自分を待ち構えるように並んで座っている母娘2人組に“恐れをなした”からであった。
 後に当たり前となるこの父親の挙動を、この時はまだひろみは実感できなかった。
 客観的に見ればそれまで自分を避けつづけていた年頃の娘が、ある日突然漆黒のセーラー服に身を包んでかしこまって座っているのである。たじろいでしまうのが普通・・・なのだろう。

 どちらかというと・・・というか完全にペースは母親が握っていた。
 一晩掛けて話した内容を噛み砕いてとうとうと父親に話す。
 少し長くなった髪のすだれの隙間から両親の顔をちらちらと見比べる。
 どちらにも見覚えがあった。
 間違いなくあの日以前にも見た両親の顔だった。
 もう少年だった日は、遥か以前に霞がかかっている。
 自分は・・・これから“娘”を演じなくてはならないのだ。
 いや、“演じる”なんてものじゃない。娘そのものにならなくてはならないのだ。
 娘・・・ってことはすなわち“女”ってことに・・・。
 もう何千回と考えたそのフレーズがまた頭の中をこだまする。
 目の前が滲んできた。
 気が付いた時にはえぐえぐと涙ぐんでいた。

 これが効果的だった。
 結局父親とはロクに話さなかった。話せなかった。
 しかし、あの涙は“反省”そして“贖罪”の涙に見えた。
 実際には逃げ回っているのは父親の方・・・に見えた。
 変な話だが、この世界では以前の自分はどういう態度で父親に接していたのだろうか?と勘ぐってしまう。
 以前の自分も何も、自分は自分でしかない。
 お互いに居心地が悪いながらもひろみはなるべく父親と一緒にいる様に努めた。
 食事も一緒に取ったし。
 テレビは付けっ放しだったけど。
 ひろみの方が圧倒的にテレビの番組には詳しい。
「変えていい?」
 これが“娘”として父親に直接話し掛けた最初の言葉だった。

 その時にはまさしくニュースが佳境を迎えていたのだが、父親は同意した。
 全てがこんな調子だった。
 テレビは与えられていたが、インターネット環境の無いひろみは我慢して居間にい続けた。
 といっても黙ってお茶を飲み、新聞を読み続ける父親の前で漫画を読み続けていただけなのだが。

 実の所ちょっと拍子抜けではあった。
 というのも、世間では父親は娘に邪険に扱われて辛い思いをしているというから、なるべく親しくしようとしてやってるのに・・・という訳だ。
 まあ、確かに性別も年代も断絶している。共通の話題などもあるまい。
 ましてやひろみは時間が来れば次から次へとチャンネルを変えて行くほどテレビ番組には詳しいのだが、ニュースに感心のある方では無い。
 焦りは禁物だな、とひろみは思った。
 それは社会復帰に対しても同じ事だった。

 これまでの友達にどうやって説明し様か、というのがまず第一だった。
 母親は自分が言ってみれば“記憶喪失”になっていることは納得してもらえているみたいだった。
 完全に、という訳ではなくて部分的に、と信じているみたいではあったが。
 まあ、“以前の世界”(あえてこう呼ぶ)と母親は共通なのだ。男の子と女の子に対する接し方が全く同じでは無いにしても、共通点は多かった。勿論、共通でない面も沢山あった。生理の対処法など、とっくに慣れているはずの事象に対して全く無力であったり、清潔好きなのは変わらないが、おしゃれに全く感心が無かったり、小学生の男の子が読むような少年漫画ばかり読んでいたりする。
 それよりも母親にとっては“娘がまともになった”ことの方が大きかったみたいだ。

 ひろみにとってもそれは困りものだった。
 正直、社会復帰したい願望は充分にある。
 だが、17歳の女の子が“社会復帰”するというのはそれはすなわち学校に通うということだった。
 自分1人で勉強が出来るならそれもいいんだけど・・・そういう訳にもいかない。
 あの“運命の日”に脱出したあの建物だろう。それは。間違いなく。
 はっきり言って“恐かった”。
 肉体は女子高生だが、精神的には小学生の男の子なのである。
 小学生の男の子にとって17歳の女子高生というのは、物凄く年上に感じられるものだ。

 あの集団の中に入る?
 ちょっと想像したく無い感じである。
 しかも、全くの新入りとして入るのならともかく、以前からの友人として入らなくてはならないのだ。
 ・・・無理だった。
 それは完全に無理である。
 女としての機微がどうこうという話ではない。これが男子高校生の集団であっても同じだろう。
 以前からの友人なんて演じられるはずも無い。
 ここは母親に相談するしか無かった。
「・・・怒らないで聞いてくれる?」
 ひろみとすれば媚びを売った積りは無い。
 だが、どうしても慎重になってしまうのだった。

 親としてはある意味当然だったのかも知れない。
 だが、どうもこの母親は娘の身に起こった事態を認めたく無いらしかった。
 少なくともこの母親に対する限りは、かなりの記憶を保持しているだけにそれも無理からぬことではあった。
「あの・・・僕ね」
 母親の表情が険しくなる。
「・・・私・・・ね」
 ひろみは一般名詞の「私」を使った。
 これだけでも顔から火が出そうなほど恥ずかしいのだが、ぎりぎりの妥協点だった。
「その・・・記憶が・・・無いわけ」
 これをもって「女言葉」と認定できるのか微妙なところだが、ひろみはなんとか語尾をぼかしながら話した。
「ひろみちゃん・・・そんなこと言わないで」
 またこれだ・・・。ひろみは肩を落とした。

 認めてくれないのである。
 こちらとしては最大に妥協している・・・というか、ある日突然女子高生になってしまったのを、そちらの都合にあわせて“記憶が無い”ことにしてやっている・・・というのに、あたかもこちらが現実逃避しているかの様に決め付けられるのは心外だった。
 あんたがこういう目にあったら自分ほど順応出来るのか!?と逆切れしたくもなる。
 とにかく「諭しモード」に入ってしまったらもう手の付け様が無い。
 ひろみはいつ果てるとも無い母親の喋りを脳の片方だけを使って聞き流しながらこれからの対策を練ることにした。

 現実問題として、本当にかつての“女友達”たちの記憶が無い以上、あたかも全く変わらずに社会復帰を果たしたかの様に振舞うのは不可能なのだ。
 そうなれば、それこそ「記憶喪失になった」などともっともらしい理由を付けるしかない。
 だがそれは両親の認定がいるに決まっている。
 親が学校側に進言してくれて初めてその“症状”が公式(?)のものであると認定されるのである。そうでなければ単なるわがまま娘の妄想である。
 何と言うか、上手く言葉に出来ないのだが“義理を欠く”のが一番辛かった。
 恐らく社会復帰、学校に通い始めればいの一番にかつての“女友達”が話し掛けてくるだろう。
 その時に「知りません」ではいかにも冷たい。
 というか、きっと取り合ってもらえず、意図的に無視していると見られるに違いない。

 それは人並に友達付き合いがあるひろみ・・・かつての宏・・・にも容易に想像がついた。
 もしも病気や怪我で長く学校を休んでいた友達が久しぶりに学校にやってきて、そいつに声を掛けたら「お前誰だ?」みたいな扱いを受けたらどう思うか?
 考えるまでも無い。
 はて困った。
 手っ取り早い方法としては転校してしまうというのもある。
 人間関係を一新出来るだけの妙案ではある。
 だが、これまた親のバックアップあってのことだ。細かいことを言えば、学友関係のリセットは出来ても親戚なんかはそのまんまだ。前の世界と同じ親戚関係なら何とかなるが、そういう訳にもいかないだろう。従姉妹のお姉ちゃんなんてこちらが小学生の男の子であるのと女子高生であるのでは全く違うだろうし・・・。
 行き詰まった。
 だが、ひろみにはもう1人味方がいた。
 いや、本当に味方かどうからこれから交渉してみないと分からない。
 勿論それは父親だった。

 父親と“サシ”で話したことなんてどれ位あるのだろうか?
 ひろみは正直言って気が乗らなかった。
 こう言っちゃ何だが、あれだけ荒れ狂い、引きこもり生活を続けていた中、殆ど接触を持ってこなかった父親である。この親不孝娘に対してどれくらいの愛情を持ってくれているのだろうか。まだ社会に出たことも無い無責任な娘はそんなことを考えていたのだ。

 “サシ”で話すには母親がいなくならなければいけない。これはちょっと難物だった。
 この家族は娘が1人だけの一人っ子みたいだった。
 自分の家なのに“みたいだった”というのも妙なのだが、こちらは知らない環境に投げ込まれたも同然なので、そういうものとして受け入れるしかない。
 父親の行動パターンは一定していた。
 朝早く会社に出かけ、夕方の7時位には帰ってくる。
 そして8時くらいまで夕食を取ると、居間でお茶を飲んだりしながらバラエティ番組を観たりして、大体10時〜11時には自室に帰ってしまう。
 寝室は母親と同じ部屋である。
 仲のいい夫婦であることだ。羨ましい。
 とにかくこの“タイムラグ”を狙うしかない。
 専業主婦である母は、その後も居間と台所を行ったり来たりしながら12時頃まで片付けたり縫い物をしたりしている。
 ここがチャンスだった。

 それはあっけないほど簡単に成功した。
「ちょっと・・・いいかな」
「ん?・・・」
 父親は寝転がって雑誌を読んでいた。
 布団を被っており、もうすっかり寝るモードである。
「は、話がある・・・んだけど・・・」
 しばらく沈黙があった。
「ああ・・・」
 布団をめくって起き上がる父親。
 面倒くさそうなのかそうでないのか、これだけでは良く分からない。

「その・・・学校に・・・行かせて欲しいなと・・・」
 そこで言葉が詰まった。
 何と言うか、発言しながらこれは相当に図々しいことであると思えてきた。なんというか、自分とすれば“行かせてもらっている”という立場なのである。それを自分の勝手な都合で行ったり行かなかったりということが許されるのだろうか。
「思うんだけど・・・」
 沈黙がやってきた。
 長い長い沈黙だった。
 ひろみはいたたまれなかった。
 自分にしてみればこんなトンでもない被害にあった被害者なのである。どうして謝る必要があるのか。むしろこんな状況下で女として生きていく決心を固めた自分など賞賛されて当たり前とすら思う。
 沈黙は晴れなかった。

「そうか・・・」
 どれくらいの時間が経っただろうか。父親は確かにそう言った。
「いい・・・かな?」
「・・・」
 また沈黙だ。
 この沈黙はひろみにとっては断罪以外の何者でも無かった。
 だが、ここは素直に受け入れるしか無いだろう。とにかくここでスポンサーを説得しなければ道は無いのだ。
「今度はちゃんと通うか?」
 少し伸び始めたさらさらの髪をぶんぶんと振り回して何度も頷くひろみ。実に可愛らしかった。
「まあ・・・いいけど・・・」
「じゃあその・・・」
「構わんよ」
 一瞬迷った。
 ここで“きゃー!うれしー!ありがとお父さんー!”とか言いながら抱きつくべきなんだろうか?

 そういう反応ってのは反射的に出るのだからいいのであって、そんなに細かく考えてはいけない。そもそも二人とも布団の上にぺたんと座り込んでいるのだから、それはちょっと無理だった。
「あ、ありがとうございます」
 何だか酷く場違いな台詞を吐いてしまったかもしれない。でも、親に対してということなら決して悪い反応ではない。
「ああ」
 父親の方でも、この重苦しい問答を早く打ち切りたかったのだろうか。
「あの・・・それで・・・更に相談が・・・」
 無言で頷く父親。
 苦しい。なんて苦しいんだろう。でも、これを乗り越えなくては明日は無い。
 ひろみはごくりと唾を飲み込んで覚悟を決めた。

「その・・・私・・・」
 ひろみは「私」という一人称を使った。
 “僕”とか“俺”は使えなかった。精一杯の努力の成果だった。
「記憶が・・・その・・・」
 ここで詰まってしまった。
 日常生活に“記憶喪失”という単語は似合わない。そして、それを口に出すのは如何にも陳腐だった。
 この3ヶ月間に、この平凡だった家庭を襲った悲劇は全てこの放蕩娘に起因する。その張本人が一体何を言うのか。
 ここでひろみは、自分がこの父親に「記憶喪失なので、母親をそう言って説得して欲しい」という事に逡巡していた理由がなんとなくピンと来た。
 そうだ、この父親って今の今まで自分の娘に起こった出来事に対して“現実逃避”していたんじゃ無いだろうか。
 そう考えれば合点が行くことが沢山ある。
 そうだとすると・・・この告白はその最も触れられたくない逆鱗に触れる行為なんじゃ無いだろうか?
 ひろみは後戻りが出来ないところに来ている自分を自覚した。

 もし本当にそうだったとしても、それでも尚納得して貰うしか道は無いのである。
 ひろみは我慢した。
「記憶が・・・何だ?」
 ああ・・・やっぱりだ。
 ひろみは落胆した。
 その口調に潜む詰問調を決して聞き逃さなかったからだ。
 両親はこの3ヶ月のひろみの乱行を、本人の気まぐれか何かだと思っているみたいなのである。
 よく分からないけど、この両親が持つひろみの記憶の中では結構問題の多い娘だったのだろう。あれだけの問題を起こしてしまうほどの。
 どうしよう・・・また問題がループしてしまった。
 本当ならここで“本当の”理由を話すのがいいのだろう。
 ある日、小学校の教室で今の姿に変えられたんだって。
 でもそれは運命の日の直後にしつこくしつこく言ったことだしそれに・・・。

 何と言うか、そういう話をする雰囲気では無いのである。
 真面目な話なのだ。
「記憶が・・・無いの」
 ふう、と溜め息をつく父親。
「それで?」
 ・・・ちょっと腹が立ってきた。
 幾ら信用が無いからといってそういう態度は無いんじゃ無いか?

 遠慮ばかりしていることは無い。この路線で押し切るしか無いのだ!
 何と言うか、これまでの十年に満たない人生だったが、それにしてもそれを全て捨てての玉砕を敢行する積りで過ごしてきたのだ。もうこれ以上何を失えというのか。
 そう考えた時、「クソ度胸」とでも言うべき感情が、火山の噴火の様にひろみを内側から突き上げた。
「だから記憶が無いの!」
「・・・何の?」
「全部!」
 大きな声だった。

「だから何の?」
 分かってはいたけど改めて溜め息が出た。どうも以前の自分はよほど両親に信頼されていないらしい。
「あの日以前の記憶がだよ」
 正式な日付なんて分からないけど、こう言えば幾らなんでも分かるはずだ。

「いい加減にしなさい!」
「いい加減じゃないよ!」
 その大声に空気が凍った。
 ・・・折角母親にばれない様に隠密行動してたのに・・・という思いがよぎったが仕方が無い。
「なあ・・・もういい加減にしてくれよ」
 情けない声を出す父親。
「それは・・・明日も早いから?仕事があるから?」
「そうだ」

 ある意味予想通りではあった。
 だが、ほのかに抱いていた希望が打ち砕かれたかの様だった。
 何と言うか・・・自分の父親には、世間的なくたびれた駄目男でいて欲しくなかった。がだ目の前の壮年は、まさしくイメージ通りのことしか言わないでは無いか。
 こちらの真剣な訴えを「面倒くさい」という理由と大差ない扱いで却下する。
 どういうことなのか?
 ひろみには効果的な方法は見出せなかった。
 ここまで事態がこじれていたのでは説得なんて夢の又夢である。

 ひろみは迷っていた。
 もしも本気で自分が社会復帰したいのなら、何が何でもここは父親を説得するしか無い、少なくともそういう“姿勢”は見せなくてはなるまい。
 だが、目の前のこの父親と名乗るおっさんは、まるで理解を示そうとしない。
 このまま押し問答を続けるのは却って逆効果なんじゃないだろうか?

 こちらとしては、せめて“やる気”を見せるのが近道だと思っていたけど・・・。
 意外に、というかあの男は丸っきり頼りにならないではないか!
 母親はあの調子だし・・・。ひろみは途方に暮れた。

 こりゃあ・・・覚悟を決めるしかないかな、とひろみは思った。
 両親に記憶を失ったことにして貰えない以上、その前提で学校に通うしかない。友達にも基本的には記憶を失ったということで何とかする。
 ・・・気が遠くなりそうだけど・・・もうやるしかない!
 その後も何度も発揮される、“クソ度胸”だった。

 気が付くと、「子供の日」直前の惨劇であったのに季節は秋になり、二学期が開始され様としていた。いい機会なのでひろみの学校への復帰は二学期からとなった。
 まず、その前提としてひろみはまだ夏休み中に学校に呼び出されることになった。

 これが最初の“制服を着ての登校”になるよな。
 ひろみは動悸した。
 よどみなく女物の下着、そしてセーラー服に袖を通す。
 “いけないこと”をしているかの様な感慨は・・・まだ完全には消えていなかった。
 自分が着ることが出来る服装のレパートリーが増えたことに関しては歓迎すべきなのだろうが、しばらくは“これしかない”と思うのは窮屈だった。
 ・・・可愛い・・・かな?
 ひろみは見た目を気にしていた。
 こういう時に本当の女の子ならどう思うのかは分からない。
 でもひろみは、“折角なら可愛いほうがいい”と思った。
 何と言うか、こういう所に、勝負事というか、競う様な精神を発揮するのが女子生徒として正常なのかどうかは分からない。
 でも、出来るところから始めるしか無いのだ。
 きゅっ!と身体をひねる。
 鏡の中の女の子も身体をひねる。
 スカートがふわりと広がって、一瞬下着の端が見えた。
 照れた。

 場所は女子高らしかった。
 恥ずかしながら女子高らしいと知ったのは「子供の日」からかなり経ってからだった。確かにあの日のことを思い出してみると出会ったのは女の子ばかりだった。走っても走っても見かけるのは真っ黒なセーラー服の女の子しか見かけなかったのだ。
 ・・・この場合どっちがいいのだろうか。
 共学校だと、自分よりもずっと年上のお兄ちゃんたちと過ごさなくてはならない。でも女子高ならお姉ちゃんたちだけで済む。
 まさかいきなり恋愛がどうこうとは思わないけど、年頃の女の子なのだ。立場だけは。だからそれなりの“覚悟”がいるだろう、と思っていた。
 別にこれは女としての自覚がどうこうというのでは無く、過剰な用心深さの発露とでも言うべきものだった。

 近所に何度も制服で出歩く生活を続けていながら、やはりこれは“特別”だった。
 制服で自分が通うべき女子高に行くのだから。
 ひろみとて男の子だったのである。“女子高”の意味くらい分かる。
 僕が女子高に・・・。
 普通のギャグ漫画だったらやに下がっているところなんだろう。でも、当事者としてそれどころでは無い。“女子高のメリット”なんてまるで思い浮かばなかった。デメリットばかりが頭に浮かんでくる。

 親にしても色々と思うところがあったのだろうが、結局電車を使うことになった。
 ついて来たのは母親だった。
 こちらの“世界”での母親の設定がどうなっているのか分からないが、少なくとも男子小学生だった自分が知っている母親は専業主婦だった。
 ひきこもり生活でも殆ど家にいたから多分こっちでも専業主婦なんだろう。
 父親はやっぱりついてこなかった。
 世間では夏休みだが、社会人ではそういう訳にはいかない。
 それにしても・・・娘が待望の学業復帰を果たすのである。付いて来てくれてもよさそうなものだ。
 ひろみはまたちょっぴり孤独感を感じていた。
 親だって人間なのである。娘の孤独感を全身で受け止めてやれるキャパシティがあるとは限らない。それにしても仕事と同程度には愛情を注いで欲しい。
 ・・・これが女性の思考って奴なんだろうか?
 分からない。
 今のひろみには分からない。
 何故か悲しくなって涙が滲んできた。

 電車の中では何故か視線を感じた。
 自意識過剰なのだろうか?
 どうしても女装して電車に乗っているというのはなんともいけないことをしてるみたいな気持ちになる。この感覚って一生続くんだろうか?なんて考える。
 全身に感じるブラジャーや女物の下着の感覚・・・、スカートの頼りない感覚・・・。
 うちの制服は膝下10センチはありそうなスカートなので実はまだマシなのだった。これが今時のパンツが見えそうな超ミニの制服だったりしたらひろみは着て外出できたかどうか分からない。
 そうなのだ、その骨董品みたいな真っ黒に白い三本ライン、真っ赤なスカーフという制服が目立つのである。
 制服姿での外出を校則に定めている学校も多いし、何より女子高生自身が制服での外出を望むこともあって、夏休み期間中に制服の女子が電車内にいるのは珍しくない。
 やっぱり目立つのはその制服の貢献がかなりあった。

 電車を降り立って、駅から学校までかなりある。
 ひろみは感じていた。
 今歩いているこのルートがこれから通う学校への通学路になるであろうことを。

 隣を何人もの同じ制服の生徒が通り過ぎる。
 だが、ひろみには気が付かないみたいだった。
 母親と一緒に歩いている女子生徒など本当に珍しくも何とも無い。
 それにしても・・・今日ってまだ夏休みじゃないのかな?
 ひろみは思った。
 まあ、それは“大きなお世話”だった。
 クラブ活動や補習など、高校生くらいになれば夏休みだろうと学校に来る理由は幾らでもあるのだ。
 必然的にひろみはその女の子・・・お姉ちゃん・・・たちをまじまじと観察するために目で追っていた。
 あれが・・・あれが本物の“女子高生”・・・。
 その感情は複雑だった。

 何と言うか・・・あのお姉ちゃんたちは何の苦労もなく女子高生やってるけど・・・自分もああいう風になれるんだろうか・・・?
 後に思い出してみて“あの頃はなんと初々しかったことか”といういい思い出である。
 校門が近付いてきた。

 校門をくぐり、建物に足を踏み入れた瞬間、何とも言えない香気に包まれた。
 別に臭くは無い。
 臭くは無いんだけど、格別いい匂いという訳でもない。
 これまたすぐに分かる事になる“女の体臭”という奴だった。

 呼ばれていたのは「生徒相談室」と呼ばれる部屋だった。
 校内の地理なんて分かる筈も無い。
 あちこちに「行事予定」だの「今月の目標」だのが張ってあって実に生活感がある。ひろみは自分が通っていた小学校を思い出していた。
 思い出の中の自分は今よりもずっと背が低いので簡単には結びつかないのだが、確かに校内はこんなふう生活感が溢れていた様な気がする。
 そうだな・・・余裕が出来たらあの小学校を探してみようかな・・・。
 ちょっと怖い気がした。

 何故か母親はあまり来た事が無いであろう校内をすいすいと歩いた。
 少なくともひろみにはそう感じられた。
 職員室や保健室、事務室などがある棟は、一般の生徒がいる教室とは別の建物になっていた。一階、二階、三階にそれぞれ廊下が繋がっていて生徒はそこから往復するらしい。
 その点小学校と基本的には変わらなかった。
 生徒指導室は当然職員室がある棟にあった。
 一階の隅の方にある生徒指導室近くは半分地下室みたいにどんよりしていた。
 夏休みがもうすぐ終わるくらいなのだから、まだまだ暑いはずなので、奇妙に涼しかった。

「あー、どうも」
 そこにいたのはいかにも暑苦しい中年の男だった。
 顔は真っ黒である。日本人か?と一瞬思ってしまった。
 それでいて髪の毛は75%以上は白髪みたいに見える。
 立ち上がりもせずに生徒とその母親を迎えたその男は、ジェスチャーで目の前のソファに座るように促した。

「あ、どうも。生活指導の竹上(たけがみ)です」
 といって軽い会釈を座ったまました。
「小林です。この度はどうも・・・ご迷惑お掛けいたしまして・・・」
 平身低頭で謝る母親。
 ひろみはどう振舞ってよいか分からなかったが、とりあえずお付き合いして頭を下げた。
「で・・・」
 なんと竹上はポケットからタバコを取り出していた。
「原因は何だったんです?」
 シュボ!と火をつける。

 ひろみは心象最悪だった。
 無論、この無神経男にである。
 こちとら万難を排して恥ずかしい制服に身を包んで女子高生として学校に通ってやろうというのにその態度は一体なんだ!
 まあ、そんな事情を斟酌してくれるはずも無い。それは仕方が無い。
 ひろみは、これまで何千回も思った“じゃあお前が女になってみやがれ!”という悪態を飲み込んだ。

「はあ・・・それが良く分かりませんで・・・」
 何故か一方的に恐縮して母親が言う。
「困るんですよそういうことをされると」
 本当に迷惑そうである。

 基本的には上の空だった。
 突然教室を飛び出して、以降行方不明も同然の放蕩娘はウチの学校には相応しくないとか何とか。
 言われている内に気が付いた。
 この手の愚痴を真に受けていたら生活なんて出来ないだろうなあ、ということが。

 その男はねちねちと愚痴を繰り返した。
 それは生活指導をするというよりも、“オレは忙しいんだよボケがあ”と八つ当たりしている様にしか見えない。
 自分が見た目にどんな性格に見えるのかどうか分からないが、セーラー服がその性格をニ三割は大人しめに演出しているのは間違い無さそうだった。自分で随分鏡も見たけども、随分落ち着いて見えたし。
 そして母親は、男の子の頃に比べてもより押しの弱い性格になっているかの様に見えた。いい年をした男が言われたらモノも言わずにぶん殴る・・・訳にも行かないだろうが、少なくとも怒り始めても無理は無い様な口調でその“竹上”は喋りつづける。

 ねちねちと色々聞かされたが、要するに復学はさせてもらえるらしい。
 また逃亡事件なんか起こすなよ、ということらしかった。
 ひろみは最初にここに来てよかったな、と思った。
 言ってみればもう全く記憶が無い状態なのに関わらず、記憶があるのにこんな事件を起こしたという最悪に近い状況である。
 やってもいない罪で責められている様なものだ。
 これからの人生の困難としてはかなりのものである。嫌味男の愚痴なんぞで凹んでいてはどうにもならない。
 どうしてこんな思考にたどり着いたのかは分からない。
 しかし、これまでの生活で十分に絶望した。
 人の10倍は絶望した。
 その反動なのかもしれなかった。

 帰りは校舎の中を歩き回りたい衝動と、何とか逃げ出そうという衝動のぶつかり合いだった。
 これから・・・少なくとも2年生の後半と3年生の1年半を過ごさなくてはならないのである。この『女の園』で。
 それも数え切れないハンディキャップを抱えてである。
 イベントその他は何とかなるだろう。さっきの嫌味男にも言われたが、勉強も大変だ。いや、大変どころでは無い。ひろみの場合はこの3ヶ月だけではなくて中学校そのものがすっぽり抜けているのっだ。

 しばらく歩いていると、校舎のあちこちに生徒が潜んでいるのに気が付いた。
 それも、こちらの姿を確認するとひょい、と物陰に隠れてしまうのである。
 ほんの少し掛かったが、ひろみはすぐにその意味を理解した。
 そうか・・・好奇の目で見られてるんだ・・・。
 冷静に考えればそれも仕方が無かった。

 今さらながら自分が引き起こした逃亡事件の各方面に与えた影響の大きさがのしかかってきた。
 これまでは引きこもっていたので考えなくても済んだことである。
 それなりに希望に燃えていた熱意が急激にしぼんでいった。

 なんというか、上手く言えないけど女同士では色々とあるらしいし・・・。
 今だって自分の身体を見るとギョッ!としてしまうのだ。
 ノーガードのお姉ちゃんたちに囲まれて大丈夫なんだろうか?
 しかし、考えてばかりいても仕方が無い。
 この日はひろみのクラスメートの女子は来ていなかったらしい。
 誰とも遭遇することなく学校を出ることになった。

 学校が始まるまではたったの一週間しか無かった。
 感心な事にひろみは教科書をまた隅から眺めてみていた。
 駄目だった。
 何のことやらサッパリである。
 元々算数は苦手だったのだけども、本当に女の子がこんなの解いてるの?と言いたくなる難しい数式がずらりと並んでいる。それにしても失礼な思考である。女の子だって数学は出来るんだ!
 とにかく字が小さいのがムカツク。
 しょーもないことを考えていた。

 小学校でやっていた学校のことを一生懸命思い出してみる。
 ひろみは男の子の頃は実はそれほど熱心に塾通いをしていたりする小学生では無かった。両親が割合に放任主義を取っていたのである。
 だから毎日やっていた勉強と言えば、日々の宿題くらいがいいところだった。
 ここ数日で分かって来ていたのは、どうも自分がこれから通うことになる・・・つまり今の自分の身体が通っていた・・・女子高は私立らしかった。
 親が勢い卑屈になるのもむべなるかなである。
 そんなことまで一気に分かった訳では無いが。

 殊勝にもひろみは緊張していた。
 小学校に上がる時・・・のことはあんまり覚えて無いな。
 何以来だろう?そもそもひろみ・・・元・宏にはそれほど人生経験なんて無いのである。
 国語の教科書は半分以上の漢字が読めないので全く意味が分からない。
 理系科目なんて絶望的だった。
 テレビで最近の女子高生の馬鹿振りをよくからかっていたのだが、こんな問題をすらすら解いているのだとしたら、想像も付かないほど頭のいいお姉ちゃんたちということになる。
 ひょっとしてあそこでインタビューに答えていたのはみんな公立の学生なのだろうか?それにしては可愛い制服を着てたけど・・・。

 ひろみは、やっぱり“以前の友達”に会うのが恐かった。
 何しろ向こうは知ってるのかも知れないが、こっちは全く知らない。
 相手にしてみればある日突然学校から駆け出して行って、それから全く連絡を取ろうともしてくれなかった不義理者である。
 自分がそういう態度を取られたとしたら・・・やっぱり腹は立つだろう。
 そしていざ学業復帰したら「あんた誰?」である。
 全く知らない人間に対するよりも恨みは深くなるのでは無いか?
 この手の疑心暗鬼はもう無限大に近い。

 しかも「あんた誰?」状態が回復することはありえないのだ。
 だってこっちには記憶が無いんだから。
 一応あの運命の日に、見る見る身体が女になっちゃったんだから、この女の身体は間違い無く自分のものなんだろうけど、現在置かれている全く知らないお姉ちゃんの身体に入り込んでしまったみたいなものである。
 これは「公式には認められて無いけども、実は記憶喪失」路線で押すしか無いだろう。

 その時あることを思いついた。
 ・・・そうだ、ボクって携帯電話とか持ってないのかな?
 勿論、この時頭の中の一人称を「あたし」とかにしないといけないなんて思いもしない。
 引出しを開けたり部屋の中を引っ掻き回してみた。
 しかし駄目だった。
 何しろ一度壊滅的に破壊し尽くした部屋なのである。
 いや、その意味で言えば家中がそうだったのだが。

 奇跡的なことにそれはあった。
 携帯電話である。
 いくら最近の子供であっても流石に小学生がそれほど携帯電話の操作に長けている訳も無い。
 スイッチを入れることだけには成功した。
 あれこれ試してみるが、トンチンカンな画面しか出てこない。
 携帯の待ち受け画面は実に素っ気無いそれになっている。
 それは買った当時の設定に戻ってしまっているということであった。
 そして・・・最後の力を振り絞るかの様に頑張っていた画面は消えてしまった。

 ああ・・・。
 と思った。
 電池が切れちゃったんだ。
 もしこれが変身前に使っていた(?)ものなのだとしたら、実に3ヶ月前のものということである。放っておいても電池切れを起こすだろう。
 ひろみは同じ所に置いてあった充電器を使って充電を始めた。
 これには数時間・・・は掛からなくても結構掛かるに違いない。
 それにしてもこの3ヶ月間、どうして携帯電話に気が付かなかったのだろうか。そんなことは意識から飛んでいたのだろう。
 何と言うか、「毎日が日曜日」状態が終わるかと思うと無性に寂しくなってきた。

 まるっきり気分は“新入生”である。
 でも回りはそうは扱ってくれない。
 ヒドイ話だけど、もう受け入れるしかない。
 出来れば小学校に入って最初にやってくれたみたいな「校内の案内」とか欲しいんだけど、まさかそんなサービスが受けられるはずも無いし。
 ひろみには当然ながら「夏休みの宿題」なんてものも無かった。
 その気になれば調べる事も出来るのかもしれないけど・・・。
 携帯電話の回復がじれったい。
 恐らくそこにはひろみの“以前の”女友達のアドレスが大量に入っているはずだったからだ。

 これまでさんざんやった新しい生活に関しての想像を繰り返していた。
 そうだよなあ、明日から制服だから毎日何を着るかなんて考えなくていいんだ・・・。
 すっかり思考が女の子になっている。だがまあ、もうそろそろ慣れていかなくてはならない頃だ。
 もうブラジャーだって毎日、毎朝してるし、下着から何から全部女の子の服を着てる。・・・まあ、通わなくてはならない学校が制服さえ採用していなかったらこんなにスカートに拘泥することも無かったんだろうけど・・・。

 あれから30分はたっただろうか。
 ひろみは一旦充電器から外してみる。
 電源ボタンを押しつづけると電源が入った。
 当然ながらマニュアルみたいなものは部屋の中からは出てこない。
 ひろみは割合にこういうのが得意な娘らしい。

 結局ここで携帯電話をあれこれいじり倒しておいた事が後の生活にいい影響を与える事になる。
 何とかアドレス長を引っ張り出す事に成功した。
 ・・・予想通りだった。
 そこには大量の友達の名前と電話番号、そしてメールアドレスが記載されていた。
 送っても送っても延々と出てくる。
 それはひろみの以前の生活の交友範囲の広さをうかがわせるものだった。

 残念ながらそれじゃあその内の1人に早速電話を掛けてみよう、という訳に行かないのが今のひろみの立場だった。
 もう今の現状を考えると、まさしく「焼け石に水」という感じなのだが、ひろみはそこに乗っている名前を住みから隅まで見回し、少しでも頭に叩き込もうとした。
 せめてもの“予習”という奴である。
「ひろみちゃーん」
 台所から母親の呼ぶ声がした。

 ひろみはセーラー服を着たままだった。
 なんというか、山の様に考えた自衛策というか、少しでも順応し様としてせめて着る事が強制されているこの恥ずかしい格好に慣れようと思ったのだ。
 靴下でとてとて廊下を歩いている。
 もう慣れちゃったな・・・と思った。
 思わずその場でくるりと回ってみる。
 プリーツの入ったスカートが「ぶわり」と広がり、ある程度から下は綺麗な円筒形になる。
 うーん、自分が考えた訳じゃ無いけど良く出来てるなあ、と思った。
 プリーツによる“遊び”というか“余裕”のお陰でこうして少々スカートを広げても大丈夫になっている。
 スカート履いてくるくる回ってぶわりと広がるのを楽しんでいるなんてまるで男の子が女装した時みたい、と思った。
 勿論、今でもその積りだけども。

 部屋のドアを開けた。
 そこには綺麗にテーブルに並べられたおかずがある。
 父親と母親がどでん、と構えていた。
 今にはテレビがあるけどもそれは消されていた。
 雰囲気が重い。
 久しぶりの・・・そしてこの姿になってからは初めての“家族の団欒”だった。
「あら、まだ制服着てたの?」

「・・・うん」
「家では着替えなさい」
「・・・はい」
 何だか普通に母娘の会話だった。
「変わればかわるのね」
「え?」
「“セーラー服なんて今時ダサい”ってあんなに言ってたのに」

 そうか・・・過去の自分はそんなことを言ってたのか・・・。
 勿論、ひろみはそんな事知るはずも無い。
 でも、そういうことを言いかねない“今時の女子高生”だったんだろうなあ、と思う。
 でも今のひろみには、脚を隠してくれる長いスカートが有り難かった。
 出来ればスカートじゃない方がいいんだけど、女である以上仕方が無いことだと諦めていた。

 黙って席につくひろみ。
 勿論、スカートのお尻の部分を手で押さえて、すうーっと撫で付けるのを忘れない。実に堂に行ったスカートの扱いである。
 意図的にスカートを扱うことに慣れようと頑張った成果がそこにあった。
 ひろみは、こうすると結構長いスカートでも、ふくらはぎの部分が殆ど全部露出することが分かった。
 元々防寒性なんて皆無の衣装なのだが、一応隠されていたふくらはぎが露出するのは何とも言えない気分だった。

「ひろちゃん、手伝って」
 母親が声をかけた、
「あ、はい・・・」
 またすぐに立ち上がるひろみ。
 あ・・・そうか・・・これが女の子ってことか。
 ちょいとばかりこれはひろみの偏見だった。今日日女の子が家事を必ずしも手伝っているという訳でも無いだろう。
 しかしまあ、この家ではそういうことになっているらしい。

 靴下まで履いたままだった。
 フローリングの床をとてとてと歩く。
「じゃ、これ」
 魚だった。
 最近の子供だったひろみは魚料理なんて好きではなかった。
 ・・・そういえば以前はこういう時ってどうしてたっけ?
 ひろみは思索をめぐらせていた。

 何だかんだ言ってわがまま言って食べなかったかも知れないなあ・・・。
 おぼんにおかずのお皿を載せていく。
 ・・・これからこうやって家事を手伝ったりする様になるのかな・・・。

 いつもは付けられている・・・少なくともひろみがまだ小学校の男の子だった時にはそうだった・・・テレビも消されていて、非常に静かな食卓である。
 運ばれ、並べられるお皿のかちゃかちゃという音だけが響く。
 そして・・・またスカートをなでつけて座るひろみだった。

「じゃあ、いただきます」
 母親が言う。
「いただきます」
 合わせて答えるひろみ。
 ああ、憶えている。
 そうそう。こんなふうにいつも食べてたっけ。

 今は自分が女子高生になっちゃってるという最大の違いがあるけど。
 かちゃかちゃ、と食器を鳴らしてみんなが何となく食事を取る。
 ごはんを箸でひとつまみし、味噌汁をすする。
 何ともありがちで、当たり前の、平凡な食事風景だった。
 ひきこもりのひろみにとっては久しぶりの他人と一緒に取る食事である。

 沈黙が支配する。
 なんとも気まずい。
 誰か喋ってくれないかな・・・。
 ひろみは密かに、長い髪で食べる食事って難しいんだな、とか思っていたりした。

「明日から」
 遂に父親が口を開いた。
「復学する訳だが」
 ひろみは丁度口の中にごはんの塊を放り込んだタイミングだった。

 ごくり、と飲み込むひろみ。
 またまた沈黙が支配する食卓。
 いつもはついているテレビも今日はついていない。
 何となくお茶碗を置く。
 父親は一言言ったきり口を聞かなかった。

 ・・・何で喋らないんだよ・・・。
 次第にひろみは腹が立ってきた。
 自分を大物ぶって見せようとしてるんじゃないのか?
 ひろみには不信感があった。
 結局この父親はひろみがひきこもり生活を送っていた時、全く対話の機会を持とうとしなかったのだ。

 それを今さら何だ!という気持ちだった。今さら偉そうな顔してんじゃねえよ!と思った。
 飯食ってる途中にこうやって黙り込んで・・・主導権握った積りなの?と思った。

「分かってるな?」
 父親は確かにそう言った。
「何が?」
 ひろみは何故か挑発的になってしまっていた。
「ひろみちゃん!」
 母親が青くなる。
「・・・決まっとる。生活のことだ」

「“生活”って何さ?」
 実際そんな抽象的な言い方では分からない。実は結構“男の子”っぽい口調なのだが、その場で気にした人間はいなかった。
「生活と言えば生活のことだ」
「何がいいたいのか分からないよ」

 きっと意地になっていたんだと思う。まだひろみは被害者意識が完全に抜けてはいなかった。確かにさんざんに暴れまわって部屋を破壊したりしたのは自分に違いないけども、それだって仕方の無いことだとしか思っていなかった。
「もう・・・ああいうことは困る」
 ひどく都合のいい思考だが、全てが終わってからこんなことを言い出すこの父親にひろみは激しく憤慨していた。

「それはもう学校休むなってこと?」
 あからさまに怒気を孕んだものの言いようだった。
「ひろみちゃん!」
「・・・そうだ」
「それは何で?」
 “何で”も何も無いだろう。だが、ひろみは自然とそう言っていた。後で考えるとこれは“反抗期”だったのかも知れない。高校2年生の反抗期というのは普通に考えればおかしいのだが、精神年齢は10歳そこそこなのである。無理も無いことだった。
 結局この晩の食事はこれで実質的にお開きになった。
 ひろみがむくれて部屋を出てしまったからである。

 閉じこもった部屋の床にスカートで座り込むひろみ。
 当然“体育座り”みたいになってしまう。もしも正面から見られたらパンティ丸見えの構図である。
 だが、構いやしなかった。
 またしてもこのスカートの感触にいらついていた。
 ・・・畜生・・・なんなんだよ一体・・・。
 折角頑張って学校に通おうと思ってるのに・・・。
 腹が立った。とにかく腹が立った。
 どうして怒ってるのか自分でもサッパリ分からない。
 “女って感情的な生き物だな”・・・なんてことはその時に思うはずも無い。が、事実そうだった。
 大好きだったテレビ番組の時間だったがそんなことは忘れていた。
 母親がドアを叩き、侵入を試みるがひろみは頑として応じなかった。
 何時の間にか意識がなくなっていた。