「華代ちゃんシリーズ」29


「子供の日」後日談 第3回
作・真城 悠

*「華代ちゃんシリーズ・番外編」の詳細についてはhttp://www.geocities.co.jp/Playtown/7073/kayo_chan02.html を参照して下さい

*本作は「華代ちゃんシリーズ28「子供の日」」の「後日談」となりますので、是非そちらを先に読まれてください。

 また、「能天気な娯楽作」を目指していた同シリーズにあって、敢えて後味が悪くなる描写をする可能性がありますので、ご了承ください。

第1回
第2回

 気が付いた。
 いや、正確にはいつ気が付いたのかは分からない。
 だが、意識が浮き上がってきた時には天井を見ていた。
 この天井・・・。
 ひろみには見覚えがあった。
 小学校の男の子の時に見ていた天井と同じものだった。少なくとも同じに感じられた。
 気が付くと泣いていた。
 喉が痛い。
 仰向けになっていた耳の中に涙が大量に流れ込んでいる。
 がさ、と身体を動かしてみる。
 スカートがだらしなくまくれあがっているのが分かった。
 今の自分は多分、膝下まであるこの長いスカートから、脚の殆どを放り出してしまっていることだろう。パンティも見えているかも知れない。
 学業復帰も目前にして、早くも制服をくしゃくしゃにしてしまった。
 でもひろみは何となく満足していた。
 上手く言えないけど、これで制服が“血肉になった”気がしたのだ。

 ひろみは気がつくとよく聞いた状態になっていた。
 “父親を避ける”という訳である。
 ひろみの場合には不信感がある。
 不信感もあるんだけど、何と言うか気まずい。
 ひろみに言わせればあっちが悪いのである。
 とにかく顔を合わせたくなかった。
 何とかしたかった。

 感情的というか、感覚的な嫌悪感というのは理屈じゃないだけにもうどうしようもない。
 時計を見た。
 もう夜の10時になっていた。
 何だか腹が立っていた。一体何に腹が立っているのか分からないけどとにかくイライラした。
 いい年こいてくると、自然と夜に寝るのは遅くなる。
 ひろみも少年だった頃・・・もっともっと小さかった頃には更に早い時間に寝入っていた。
 幼稚園を卒業して、小学校に入ってすぐの頃はそうだなあ・・・もう10時に起きていたらそれはもう大変な夜更かしだったものである。

 それが小学校中学年から高学年にさしかかった頃になると、学習塾なんかが導入されることもあって、10時になってから初めて寝ることも珍しく無くなっていた。
 今から考えれば、毎日夜8時に寝る生活というのは、ちょっと“異常”ではある。

 階下の状況を確認したかった。
 でも・・・。
 言ってみれば喧嘩である。気まずいから顔を合わせたくない。
 父親の側からしてみればかなり厳しい条件であった。完全に娘に嫌われてしまったのだ。
 結局セーラー服は着たままである。
 これって・・・お風呂場で脱げばいいのかな?
 “制服”自体が初めてであるひろみはそんな判断も付かなかった。
 その時に、あるものが目に入った。
 先ほど弄繰り回していた携帯電話である。

 少し前にいじくり回していた効果が出た。
 すぐに自宅の電話番号を探し出すことが出来る。
 それは小学生の頃に暗記していたものと同一ではあったが、携帯電話で呼び出すことに意味があった。
 ひろみは遂に通話ボタンを押した。
 なんと自宅の中から自宅に向かって電話を掛けたのである。

 ひろみの胸に突き上げる罪悪感と、それ以上に糊塗される自己弁護を織り交ぜた感情が支配する。
 ドアの向こうでベルの音がする。
 うちの電話ってこんな音だったんだ。
 そんなことに感心していた。

 ぶつっと耳元で携帯がはぜた。
「はいもしもし」
 母親の声だった。
 ひろみは少し安心した。
「あの・・・」
 ごく自然に出てきていたはずの声にも、無用な緊張で違和感を感じる。

 ひろみは「一人称」を用いなかった。
 改まるとどうしても恥ずかしかったからである。
 そもそも自分の今の名前すらおぼつかないところがあった。
「もう寝た?」
 まさに「単語でしか会話できない」最近の娘であった。
「ひろみちゃん?」
 母親が聞き返す。

「・・・」
 受話器を持って頷く。
 聞こえてはいないだろうが、雰囲気は伝わったみたいだった。
「“寝た”って・・・お父さんのこと?」
「・・・」
 やはり答えないひろみ。
「・・・ひろみちゃん・・・」
 そうなのである。ひろみは自分の家の中の、父親の位置を確認するのに携帯電話を使ったのである。

「寝たんだね」
 今はどうでもよかった。その事実が確認出来さえすればいいのである。
 ひろみは電話を切った。
 そしてセーラー服のまま部屋を飛び出した。
 母親と顔を合わせるのが嫌なので引きちぎるようにしてセーラー服を脱いで乱暴に洗濯籠に放り込んでいく。セーラー服も下着も何もかもごちゃまぜだった。
 実際には「制服」というのは特殊で、毎日着るものなのである。だが、どうでもよかった。
 初々しい肢体を飛翔させてひろみは狭い風呂に飛び込んだ。

 朝が来た。
 日が昇るのは決まっている。
 だがそこに人間の「都合」が介在することもある。
 もしも何も無かったとしてもきっとこの朝は憂鬱だったはずだ。
 しかし、ひろみの憂鬱具合は更に増していた。
 言うまでも無く家族の不和である。
 勿論、こんなのは「不和」の内には入らない。だが、人生経験の少ないひろみには、それが自分の人生の中で襲い掛かってきた「危機的状況」の中でもトップクラスのものだった。

 上半身を起き上がらせると、適当に引っ掛けたパジャマが目に入る。
 誰でもそうだと思うけども、どうしても極端から極端に走りがちになる。大袈裟に言えば中途半端に駄目になる位なら決定的に駄目になった方がマシである。
 ひろみは念願・・・という訳でもなかったが・・・の復学の日にも関わらずもう何もかもが嫌になっていた。
 その“何もかもが嫌”の理由が父親との口喧嘩なのだから平和なものなのだが、思春期の女の子の精神を支配するには充分なヴォリュームであった。

 時計を見る。
 もう朝の6時だった。
 聞いた話では7時半には学校が始まるらしい。
 高校の、それも女子高の行事割り当てなんて知るはずも無い。今日はいつもの授業とかじゃなくてきっと始業式なんだろう。流石の(?)ひろみも始業式、終業式の経験くらいはある。
 まだまだ9月は残暑が残っている。
 引きこもりだったひろみの部屋にはエアコンが完備されていたが、ムシムシすることには変わり無い。
 それだけでイライラが更に募ってくる。

 このままいつまでもベッドでいじいじしていても仕方が無い。ひろみはばっ!と起き上がった。
 俊敏に行動して相手の先手を取る!
 そう勝手に決めた。

 脱兎の如く部屋から飛び出ると、脱衣所に向かった。
 勿論こんなに走るのは父親と顔を合わせない様にするためである。
 脱衣所にはセーラー服が畳んで置かれていた。母親の仕事に違いなかった。
 細かいところに感謝したいところだが、何となく気まずい思いをしながら下着類とともに抱えてまた部屋にダッシュする。

 ばたん!と大きな音を立てて閉めると、まるで早変わりの様に制服に着替えていくひろみ。
 女になった直後は随分と感慨深かった女物を身につける行為もこうなってしまうと何とも味気ない。
 ブラジャーにおっぱいが思いっきり引っかかったり、あっちをひっぱりこっちを引っ張りと色々やって、女子高生が完成した。

 結局、実にぎこちない有様でその日の朝食を過ごすことになった。
 ひろみにしてみれば“悪いのは自分じゃない”となるので、罪悪感なんてあろうはずもない。
 客観的に見ると実にツンケンした女子高生そのままだった。
 その意味で言えば、ほんの数ヶ月前までは小学生の男の子だったひろみは女になれたのかも知れなかった。

 電車を乗り継ぎ、次第に目標の女子高が近付いてくる。
 ひろみは、男の子の頃はそれほど電車は使わない生活だった。
 しかし立派な財布も持たされ、買ったばかりの定期券を使って遂に一人で学校にやってくるまでになったのである。

 変な話だが、今の自分をどう考えるのかに非常に揺れていた。
 どう考えてもありえない、と思った。
 つい最近まで小学生の男の子・・・てゆーか、はっきり言えば「クソガキ」だった人間にセーラー服を着せて1人で女子高に通わせるなんて横暴である。人権侵害だ。
 誰に向かって怒っていいのやら分からなかったが、納得がいかなかった。
 きっと俺以外にはこんなことやらんぞ。絶対に。
 電車の中の風景を眺めながら、ふつふつと湧いてくる怒りを抑えるのに苦労した。

 結局、家族とは理解の溝が大きいままここまで来てしまっていた。
 ひろみは当然ながらそれほど人生経験が長くない。しかし“ピンチ”である人間に対してそうでない人間には手を差し伸べて当然であるという“思い込み”があった。

 しかし、その淡い希望というか、希望的観測、いや“当然の事実”はもろくも裏切られることになった。
 原因は幾つか考えられる。
 そのうち最大のものは、状況を理解してもらえていないということだった。

 ひろみにしてみれば、いまのこの肉体そのものが巨大な“障害”であった。
 小学生の男の子は、女のことを考えるだけで恥ずかしくなってしまうものだが、そえrは反面興味への裏返しでもある。
 しかし、なりっぱなしということになれば話は別である。
 この肉体に閉じ込められてからの3ヶ月以上の期間、どれほど悩み苦しんだかは筆舌に尽くしがたい。

 しかし、そうは言ってもそれをもって「客観的な証拠」に出来るはずも無い。だから両親は未だに単なる乱心としか思っていないのである。
 変身直後はそりゃもう凄い暴れっぷりだった。それは記憶にある。
 しかし・・・それでもう信頼関係はぷっつり切れてしまったのだろうか。「どうしようもない子供だ」ということに確定してしまったのだろうか。
 また涙が出てきた。

 やっぱり自分は孤独である。誰にも分かって貰えない。
 実はこれはひろみは特殊に過ぎるにしても、思春期の女の子は多かれ少なかれ経験している感慨だった。

 これまで自分は・・・小学生の男の子だった頃には、毎日学校に来る時に何を考えてたカナ?と思った。
 何も考えているはずがない。