不条理劇場 9

「四人の女」
連載第9回(にあたる部分以降)


作・真城 悠

この小説は「フィクション執筆掲示板」にて書かれたものです

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121(2003.1.7.)
 やはりつばを飲む大野。
 これを・・・これを着るのか。
 こうして見ると意外に大きいものだ。
 でも肝腎の胴体を入れる所は意外に細い。
 でも・・・これを自分とさして体形の変わらない白鳥さんが着ていたのだ。自分にも可能だろう。
 えと・・・どこを掴んでどうやって着ればいいのだろうか。
 要するにレオタードにスカートがついたみたいなもんだろう。大分違う気がするが。
 結局、筒の部分の脇を両手で掴んだ。
 肩ひもを掴んだりはしない。
 結構な重量になりそうなので、この細いひもでは頼りない感じがしたのだ。
 ふわりと持ち上がった。
 がさかさと音がする。
 意外にスカートは固いみたいだ。
「大野さん」
「はい」
「置いたまま足を入れた方がいいと思いますよ」
「はあ・・・」
 先達の言葉である。ここは従っておくべきであろう。
 またもふわりと地面に置く。
 背中部分を見る。
 ・・・何だこれ?
 そこにはファスナーがあるものだと思い込んでいた。
 だがそこにはフックが沢山ついていた。


122(2003.1.8.)
 膝を曲げてしゃがみこみ、フックを一つ一つ外して行く。
 そして大きく開いた段階でまた立ち上がる。
 先ほどと違うのは、下半身がバレエタイツに、足首がトゥシューズに覆われている点である。
 こうしてみると、何だか魚のひらきみたいである。
 華麗なバレエ衣装の“中身”を覗き込む体験などそうそう出来るものではない。ふむふむそうか、こういう中身になっていたのか。
 それは特にどうということもなく、見かけから容易に予想できるものではあった。
 そして・・・パンツ部分までが見通せる。
 この穴にそれぞれの足を入れるんだな。
 まず右足のトゥシューズのつま先をその穴に刺し入れる。
 とにかくスカートが壮大に広がっているから、それを踏まないように大またで踏み入らなくてはならない。
 ・・・何とも言えない。
 男の時にこんな着用感覚は無い。
 構っていられない。左足も入れる。
 トゥシューズ着用時の地面への接地感というのは実に頼りない。
 例えが難しいのだが、バイクが走っていないと倒れてしまうみたいなもので、踊る為の靴なのだから静止しているときの快適性など考慮されていないのである。
 そして先ほどと同じく、衣装のわきの下に当たる部分を両手で掴む。
 さあ、これでぐいっ!と上に引き上げれば全て終わりである。
 今の自分はそのためにかがんだ脚の膝が自然とひっついてしまうほど“女”になってしまっている。
 これを引き上げればしがないフリーターだったこの俺が本物の“バレリーナ”に・・・。
 ええーい!もう何でもいいや!
 思い切って少しづつ引き上げる。
 スカート部分は、胴近くになっても硬いチュールが当たるらしく、肌の透けそうなタイツにかさかさと擦れる音がする。
 大野はそれほど女に詳しい訳では無いが、“これって「電線」しないのかな?”などと思った。


123(2003.1.9.)
 ・・・つかえた。
「大野さん」
「はい」
「お尻がキツくありませんか?」
「・・・キツイです」
 事実キツかった。
 自分のお尻が男の時代に比べて大きくなっているのは知っていたが、これほどとは思わなかった。まあ、男の時とチュチュを着比べた訳では無いのだが。
 ぎゅうぎゅう無理に押し込むのだがなかなか通らない。
 何と言うか、このチュチュというのは実に装飾が多く、しかもそれがデリケートなように見えるのである。
 あっちやらこっちに付いているのは鳥の羽じゃないのか?
 ちょっと力を入れればあちこちがとれそうなのである。
 最初に観たのはやっぱりテレビのコントだったんじゃないかと思うのだが、その時もやっぱりおもちゃみたいに見えた。
 こうしてみてもやっぱりおもちゃみたいである。
 あんまり強く引っ張るとびりびり破れそうだった。
 でも、ここまで来てしまったからには引き返せない。
 むざむざ女になった上にバレエタイツまで履いて、トゥシューズまで履いた上にチュチュに半ケツ突っ込んでどうして引き返すことが出来るだろうか。男であったとしても引き返せないだろう。
 ・・・それは無いか。
 ぐぐぐ・・・すすす・・・と少しづつ通っていくチュチュ。
 何とも言えないが、正直ある種の快感があった。
 キツイところを通り過ぎると後は楽だった。
 しゅぽん!と一番奥まで達する。
 ぴたっ!とパンツ部分が下腹部に密着した!


124(2003.1.10.)
 意外だった。
 そうか、これってレオタードみたいなものなんだ・・・。
 実はそれはチュチュを引き上げる時から感じていた。
 脚の周囲をパンツの縁部分が少しづつ締め付けていき、一番上まで達した時にその拘束感が最大になる感じである。
 履いた事は無いが、ブルマもきっとこんな感じなのだろう。
 そっか・・・今ならブルマを履いても別におかしくは・・・あるよな。
 せいぜい女子高生が限界で、今の自分の様な20代半ばの女がブルマを履いていたらなにやら薄気味が悪いものがある。
 それはともあれ今はチュチュだ。
 ビンッ!と張り詰めるまでに上に向かって押し上げたチュチュは完全に装着位置に来た。後は背中のフックを留めるだけだ。
「着られました?」
「あ、まあ・・・一応」
「もう振り向いてもいいですか?」
 少し考えた。
 もう剥き出しだったおっぱいも一応このチュチュで隠す事も出来たし・・・。
「はい」
「じゃあ・・・」
 振り向いた・・・のだと思う。そんな気配がした。
「これは・・・お似合いですね」
 今の姿が自分では分からないんだけど、白鳥さんにしてみればそれまでOLスタイルだった女が、振り向いてみたらチュチュに全身を突っ込んで後は背中を留めるだけの状態になっているのである。それは感じる物もあるだろう。
 大野は落ち着かなかった。
 予想できていたこととは言え、全然“何かを着ている”感じがしない。
 いや、“全然しない”ということは無いのだが、実に頼りない。
 そうなのだ、男の時は腕か、もしくは肩すらも出す事は無い。そこまで“着て”初めて何かを着ている気になる。
 だが今は細い細い肩ひもだけで肩どころか胸から上が全て剥き出しなのである。下着・・・そう、下着姿と大差無い様にしか感じられない。


125(2003.1.11.)
 びっくりした。
 背中側をぎゅっ!と締め付けられる様な感触が襲ったのだ。
「あ・・・」
「締めますね」
「あ・・・はい・・・」
 答えも聞かずに次々に下から次にぷちぷちとフックを留めて行く白鳥さん。
「・・・」
 結構キツイ。
 最初に外から見た印象と同じで、こんな細い所に胴体を押し込もうとしたらそれは大変に決まっていたのだ。
 最後のフックになった。
 背中の真中ほどしか無いチュチュの胴体部分、その上辺のフックの反対側・・・つまり胴体の前面には・・・乳房があった。
 構わずフック部分を持ってぐい!と自分の方に引き寄せる白鳥さん。
「・・・っ!」
 乳房が押し付けられる。
 生地がビンビンに張り詰め、胸の谷間の間の生地がまっすぐに浮き上がる。
「・・・・・・」
 そのままぷちっと背中側が留められた。
「出来ました」
 あっけなくその声がやってきた。
 遂に・・・遂にバレリーナの服を着てしまった・・・。
 妙な物だが、ほんの少し小学校時代の事を思い出していた。
 かなりの時間が経っている。
 思えば遠くへ来たもんだ。
 人並のやんちゃなガキだった自分は、男同士でつるんで女子トイレにいたずらしたりした過去が蘇ってくる。
 それが今、女の身体になった上にバレリーナの格好をしている・・・。
 両親の顔も浮かんでくる。友人、知人の顔も浮かんでくる。
「大野さん」
「あ、はいっ!」
「折角だからこっち向いてくださいよ」
 そういえばそうだ。
 大野は着る事が出来てから初めて身体を動かした。


126(2003.1.12.)
 その瞬間だった。

 優しく。しかし力強くその剥き出しの両肩が冷たい手に掴まれた。
 驚いた。
 ビクっ!とした。
「白鳥・・・さん?」
 振り向こうとした機先を制された様な形だった。
 ゆっくりとその手のひらが小さな肩を包み込み、下方向に向かって撫でて行く。
「・・・あっ・・・あの・・・」
 大野は、言葉にならない官能的で隠微な快感が背筋を走り抜けるのを感じていた。
 剥き出しになったその肩は、感覚が普段の何倍も鋭敏になった様だった。
 その細い身体に不釣合いなほど大きく広がったスカートに白鳥の身体が接触してかさかさと音がする。
 すすーっとそのきめ細かな肌触りが腕を包んで行く。
「しらと・・・り・・・さ・・・・・・」
 肩ひもの一本だけの感覚がより強く意識される。
 着ている感覚としてはこれ以上身体が覆われることは無い。
 これだけ多くの部分が剥き出しになる衣服があろうか。
 しかしこれで“完成”なのだ。
 この剥き出しの肩と腕・・・。
 そこを撫でられて、あえいでいるのか?俺は・・・。
 危く口から官能的な声あ出そうだった。
 それを理性が辛うじて押しとどめる。


127(2003.1.13.)
 手のひら全体で触っていたそれは、最終的には指一本になり、白魚の様な大野の指先まで撫できった。

「すいません」
 何故か背後から謝罪の声が聞こえてきた。
「いえ・・・」
 何と言っていいか分からなかった。
 そもそもの申し出からして変なのである。
 こんな緊迫した段階で衣装の交換など。
 男同士ならどんな特殊で、それこそ“憧れ”の衣装であったとしてもそんな申し出は通らないだろう。
 しかも、お互いに性転換して女の衣装を着ているのである。その衣装そのものがコスプレ的な突飛なものであることを差し引いても、お互いに別の女装をしましょうと提案しているのにも等しいのである。
 大野が触られてまず感じたのは・・・やはり性的なことだった。
 それはこの状況下・・・お互いに女の身体になってしまっている・・・ことからは連想は自然だった。
 大野は意気地が無いのと、なにやら勿体ぶってしまったのでまだ行っていないが、この部屋の住人はそのあたりはもっと突き抜けているみたいに見える。
 このまま誘われてしまうのだろうか?
 そうした恐怖と・・・ひょっとしたら期待・・・がない交ぜになった感情が、単なる肩や腕への接触をより官能的なそれに押し上げていたのかもしれない。
 手が離れた。
「じゃあ・・・」
 そのまま手を身体の横に下げると、どうしてもスカートに接触してしまう。
 だから斜め下に広げるみたいな感じになる。
 ・・・それはステレオタイプな「バレリーナのポーズ」そのものだった。


128(2003.1.14.)
 
スカート・・・というか自分の身体に付随した多くの部分が、身体と一緒に動く・・・これは体験した事の無い感覚だった。
 足を組み替え、その場で一回転するかの様に振り返る。
 その間に腰の部分を一瞬反対側に少し回転させてみたりする。
 勿論、真横に広がったスカートはそれに付いて来る。
 これは面白いな・・・。
 大野は思った。
 そして・・・本当にバレリーナになっちゃったんだな・・・。
 また思っていた。
 自分の身体をこうして見下ろすと、OL時代(?)には分からなかった胸の谷間を意識せざるを得ない。
 女というのはなんとも得だなあ、と思った。
 衣装の露出度1つでここまで印象を操作出来るのである。
 ピンク色が視界に入ってきた。
 その瞬間・・・。
 新米バレリーナは思わず吹き出していた。


129(2003.1.15.)
 
そこにはOLがいた。
 だが、そのOLの頭部は白い羽飾りを付けたバレリーナのままだったのだ!
 こんなミスマッチがあるだろうか。
 バレリーナ大野は思わず吹き出していた。
「?何がおかしいんです?」
「あ・・・すみません」
 それでもほころんだ表情はすぐにゆるまない。
「白鳥さん・・・鏡見てみて下さいよ」
「・・・大野さん・・・お似合いですよ」
 あ、有難うございます。
 ぺこり、と頭を下げる。
「折角だからピルエットしたらどうです?」
 頭だけバレリーナのOLが言う。
 え?何ですって?
「“ピルエット”ですよ。バレリーナが膝を曲げて腰を落とすあの“おじぎ”です」
「ああ」
 そう言われると大野にも何となく見た憶えがある。
「いいですよ。恥ずかしい」
「そのスタイルでもう恥ずかしいも何も無いですね。私なんてそのスタイルでコンビニに買い物に行ったんですよ」
「まあ、そりゃ・・・」
「こんな服着られる機会なんて無いんですから」
 ま、確かにそうだ。
「あっ!」
 何かに気が付いたらしい白鳥。
 反射的に自分の頭を触る。
「なるほど、これですか」
 にっこりとするOL。
 びりり、とはがして大野の頭につける。
「あ・・・」
「ちゃんと付いてませんけど、いいですよね」
 これで・・・って何回言ったか分からないけど・・・これで本当に文字通りつま先から頭のてっぺんまでバレリーナになっちゃった。


130(2003.1.16.)
 大野はその場で見よう見真似・・・というか、適当に膝を落として大きくお辞儀をした。

「わ〜!」
 ぱちぱち、と拍手する白鳥。
 これだけ姿勢を変えても足どころか下半身そのものが全く見えない。スカートに阻まれているからだ。
 なんともはや凄い衣装である。
 ええい!こうなりゃヤケだ!
 大野はその場から後ろに下がると、すっ!と両腕を頭上に掲げ、とことことその場で回転し始めた!
 ああ・・・こんな姿を思いっきり他人に見られている・・・。
 昨日の着替え経験で自分のわきの下には、無駄毛ひとつ無いことが分かっている。それを思いっきりおっぴろげて見せ付けているのである。
 考え様によっては上品なストリップにも思えてくる。いや、こんなことを言っては本職に失礼なのだが、そこは素人の浅はかさである。
 なんというか、つま先で倒立できたりする訳では無いのだが、バレリーナ気分は抜群だった。
「大野さん脚上げて!」
 もう言われるままだった。
 思い切って右足を前方に振り上げる。
 足に押されてスカートが形を保ったまま斜めに傾ぐ。
 これでも一応スカートである。
 直立しているとそのままパンツ部分が見えてしまいそうな形であるが、一応パンツ部分は“隠されている”はずである。
 それを思いっきりお客に見せつける様な形になってしまった・・・。
 すぐにその足を元に戻し、今度は後ろ向きに振り上げる。
 背筋が反り返り、衣装の胸の部分がより緊張する。
 肩のひもが食い込み、衣装の胴体回りに皺が寄る。


131(2003.1.17.)
 
ふう・・・。
 足を元に戻す。
 薄ら寒いこの季節に、半裸に近いこのスタイルでの軽い運動に、なんとも言えない緊張感と運動効果に軽い汗をかいているみたいだった。
 何と言うか・・・これがその・・・エクスタシーって奴なんだろうか・・・。
 正直に言うと気持ちよかった。
 何と言うか、見られている快感とは違うと思う。そんなもの良く知らないし。人前に出るのも億劫な人間だったのだ。放送部の人間が聞きとして校内放送をやっているのを火星人を見る様な目つきで見ていたのだ。
 上手く言えないんだけど、恥ずかしさが極限を越えて快感に変わったというのだろうか・・・。
 ぱちぱち、と拍手を続けているOLスタイルの白鳥。
「ど、どうも・・・」
「とっても堂に行ってますよ」
 声は完全に女性の物なので、女性に言われているのと変わらない。
 ほんの少しお化粧が濃い気がするし、固く纏められた髪型が“普通のOL”然とはしていないのだが、やっぱり制服は魔物である。立派にOLに見える。
「小さいですけどバスルームに鏡がありますよ」
 はっとした。
「どうぞ」
「はあ・・・」
 私はこれからのことを考えますから。
 その瞬間、また別のことを考え始めていた。
 ちょっと待てよ・・・。この格好じゃあ外出出来ないじゃないか!
 ホテルのロビーにいるバレリーナは異様である。
 いや、日常のあらゆる局面で異常・・・というか舞台かその控え室くらいしかこの衣装に似合う背景は無いのだが。
「大丈夫ですよ」
 またOL白鳥はにっこりした。
「着替えの買い物は私が行って来ますから」
 ほんの少し嫌な予感がした。


132(2003.1.18.)
 まさか・・・とは思うけど、白鳥さんが俺をハメた・・・ってことは無いよな?

 衣装を交換すれば、最も日常の服装に近いOLの制服は広域で活動するには最も有利だ。バレリーナの格好では、警官に見つかれば職務質問ものだろう。
 このまま現金を持って逃げれば・・・。
 後に残されるのは女子高生の制服とバレリーナ、そしてウェディングドレスの花嫁だけということになる。
 まさか・・・まさかな。
 大野は沸きあがる疑問を振り払った。
 白鳥の方は、動きやすい衣装になったからという訳でも無いのだろうがさっさと自分の荷物の中身を確認し始めている。
 城さんは、依然として眠りつづけている。その無垢な寝相がなんとも可愛い。
 天使の様な寝顔だった。ぽかんとあいた口元もだらしないというよりは、その可愛らしさをひきたてていた。
 まあ、じゃあ・・・折角だし・・・。
 大野はミラー・ショウを楽しみにバスルームに向かった。
 この姿になってから鏡を見るのは二回目だった。
 昨日の晩のOL姿の時だけだ。
 いくら若い美人の女とはいえ、変わり果てた自分の姿を見るのは複雑なものがある。
 大した人生じゃないが、それなりにいい事もあった。
 部屋に積み上げたオタク・グッズなどもその1つだ。数々の趣味も、人生を楽しくしてくれた。
 女になったからと言って、それらが全部無効になる訳では無い。
 だが、生き方は変えなければならないだろうな、と思う。
 鏡を見るのも・・・きっとこれまでよりは増えるんだろう。だらしない男というのは確かに見るに耐えないが、今の自分の様な若い女がだらしないというのも、ある意味では男のそれよりもわびしいものがある。
 大野はとことこと廊下を歩いた。
 部屋の中で靴を履いて歩いているみたいだった。
 いや、実際そうなのだが。
 考えてみれば・・・「靴」までがその衣装の一部として分かちがたく一体化している衣装というのは珍しい。
 そりゃOLだってパンプス履いてるし、多分スチュワーデスはハイヒール履いてるだろう。でもどれもバレリーナのトゥシューズほどの一体感は無いのでは無いか。
 ・・・どうでもいい妄想だった。
 スカートがこすりそうな狭い廊下の途中に、バスルームへの扉はあった。


133(2003.1.19.)
 部屋の構造は同じだよな・・・。
 大野の頭の中にフラッシュバックしていたのは前日の夜のことである。
 奥に向かって開く。
 狭い通路には完全にスカートは擦れ、ひしゃげた。
 ほんの少しその前から歪んでいるみたいだ。
 白鳥さんは目が覚めた時にはこの格好だったのだ。ということはつまりこの超立体的な衣装で布団に寝転がっていたのだから、そりゃ歪みもするだろう。
 大野は何となく目をつぶっていた。
 自分のこの姿がちらちら目に入るのを避けたかったのだ。
 ・・・ひょっとして楽しみにしてる?
 いやその・・・別にそういう訳でも無いんだけど・・・。
 足元・・・が見えない。スカートで。
 何とか手探りでユニットバスの洗面台の前に来る。
 もうあちこち構わずにスカートがあたりまくる。駄目だ。この格好ではユニットバスには入れない。
 大野は苦笑した。
 殆ど同時に目の前に視線を上げた!
 ・・・固まっていた。
 そこには先ほどと同じ娘がいたのだ。
 ショートカットの爽やかな顔。
 そしてその頭にいかにも乗せただけに見えるバレリーナの髪飾りがちょこん、と乗っている。
 何とも言えなかった。
 裸同然の上半身・・・この鏡では上半身しか映らない・・・に、胸の形をかたどった羽飾りの下に、白銀の衣装が光沢を放っている。


134(2003.1.20.)
 バレリーナだ・・・と思った。
 自然と仕草が内向きになる。
 髪型はOL崩れのショートカットのままで、特にオールバックになっていたりする訳では無い。
 メイクも舞台用のそれではない。
 だが、バレリーナだった。
 目の前の自分に占める肌色の面積の多さが生々しさを強調する。
 それが女体だからだけではないだろう。
 ・・・何とも言えず恥ずかしかった。
 肩に触れるひもの感触・・・。
 剥き出しになった腕が寒い。
 ゆっくりとその白魚の様な細い腕を顔に持っていく。
 本当に細い腕、そして指だった。
 目をパチパチさせる。
 考えられなかった。
 これ以上あれこれ考えても仕方が無かった。
 そこらじゅうと摩擦を起こしながら、気がついたら廊下にいた。
 たった今確認した自分のビジュアルと、鏡無しでも分かる、自分の視線のすぐ下の身体を見比べる。
 それによって客観的な映像を頭の中に構成した。
 バレリーナが部屋から出てきていた。
 自分がおもちゃになったみたいな気がした。
「大野さん・・・?」
 目の前にOLがいた。
 無理矢理に髪をストレートロングに下ろした白鳥だった。


135(2003.1.21.)
「あ・・・どうも・・・」

 妙な挨拶になってしまった。
「私も顔を洗おうと思いまして・・・」
 にっこり笑う。
 元々整った顔の美人である。
 なんだか恐縮した気の小さな男みたいになってしまう。
 違うだろ、そうじゃないだろ。
 そう思った。
「ど、どうぞ・・・」
 どぎまぎしてしまう。
 とてもでは無いけどこのスカートでは狭い廊下を横切れないので、白鳥さんが一歩下がる。
 猫背になりながらその前を横切る大野。心なしか衣装の背中側がより肌に食い込んでくる気がする。
「大野さん」
 すれ違いざまに白鳥が声を掛ける。
「はい?」
「よくお似合いですよ」
 ウィンクした。
 胸がキュン!となった。
 その瞬間には白鳥はバスルームに消えていた。
 バタン、という音の直前に手にしたビニール袋とかちゃかちゃという音が耳に入った。
 その場に呆然として立ち尽くす踊り子。
 ・・・何というか・・・それにしても落ち着いていることだ。もう十年も女をやっているみたいではないか。


136(2003.1.22.)
 大野はその場に立ち尽くしながら色々と考えた。

 何と言うか、大野の男だった時の風体というのは中肉中背、太っても痩せてもおらず、特にこれといって特徴は無い。
 だが、お世辞にも二枚目などではありえなかった。
 まあ、はっきり言って不細工に振れていたと思う。
 それに加えてだらしないものだから余計に垢抜けない外観だった。
 もしもパリっと糊の利いた格好をしても、余計に本体の貧相さを際立たせるだけなのでは無いかとすら思える。
 外観が人の全てを決めるとは言えない。だが、やはり人間見た目は大事である。
 テレビに登場する、綺麗どころの俳優やらタレントを見ていると「ああ、こいつらには俺なんかとは全く違う人生があるんだろうなあ」と思う。
 それは日常生活でも近いことはよく感じていた。
 バイト先にもやはり“今時の若者”みたいなのがいる。
 彼らが身につけている、抽象概念としての“おしゃれさ”みたいなものは、なにやら生まれつき、ごく当たり前の様だった。
 もう、空気の様なのである。そういえば英語で“空気”と言えば“雰囲気”という意味にもなったな。日本語でも殆ど同じ意味で使えるし。
 どこがどう違うのかよく分からないが、20代半ばでオタクの半ひきこもりをやっている俺なんかは、まるっきりこちらは眼中に無い感じだった。
 もう人種というか文化そのものが違うのである。
 実は蛮勇を奮い起こして一回だけその中の女の子を美術館に誘ったことがある。
 だが、翌日にはそれを肴にして笑い話にしているのを店の影で聞くことになってしまった。


137(2003.1.23.)
 何と言うか、本当に自分・・・大野・・・とはそういう“マジな話”が通用する相手と見なされていないのである。同じ文化を共有していない感じだった。
 何が?一体何が違うというのだろう?
 分からなかった。
 年齢が少々離れているからか?とも思ったが、同じくフリーターでも長髪の軽いタイプ・・・勿論二枚目・・・の男は女子高生男子校生バイト軍団とよく店が跳ねた後にカラオケに行ったりしているというではないか。
 それが崩れたのがとあるテレビ番組を観ていた時の事である。
 いじめっこといじめられっ子とを並べて討論させようという、悪趣味一歩手前の討論番組だったのだが・・・そこに映し出された“いじめられっ子”は・・・まさに悪夢だった。
 それは自分自身を見るかの様な、なんとも薄気味の悪い“イケテない”連中の集団だったのだ。
 一方、近所のコンビニで漫画雑誌を買う様な軽い調子で、いかに自分がヒドイいじめをしてきたか語る“いじめっ子”こそが、“今時の普通の若者”そのものに見えたのだ。
 好むと好まざるとに関わらず、スタジオの雰囲気は“こんな連中ならいじめられるのも仕方が無い”という風に傾いていった。
 これを見て大野がどう思ったかは書くまでもないだろう。
 そこには言葉にするのも憚られるほどの深刻な“断絶”があった。
 少なくとも“普通”の方がマジョリティ(多数派)である以上、自分たちの運命は決まった様なものだった。
 そして今である。
 恐らく今の自分が、それなりの格好に身を包めば、間違いなく“イケてる”側に仲間入りをすることが出来るだろう。
 だが・・・。
 今の白鳥さんとのやりとりを見る限り、それは決して越える事の出来ない生まれながらの壁なのかも知れないな、と感じた。
 白鳥さんは間違いなく“あっち側”の人間だろう。

 そして、こんな状況下でもなければ鼻も引っ掛けて貰えないに違いない。
 ごく稀に見せる、こちらを冷笑したかの様に見える仕草に、大野は本能的な恐怖を感じていた。


138(2003.1.24.)
 
トゥシューズでペタペタと床を歩いて部屋に戻ってきた。
 きっと白鳥さんの手に握られていたコンビニの袋みたいなのに入っているのは、ここに来るまでに調達していたメイク落としだろう。
 お化けみたいなバレリーナメイク・・・というほど濃い訳ではなかったのだが、ともかくメイクを落としにいったのだろう。
 大野も感じているのだが、どうにも男だった身には常に唇がぬめぬめしているみたいで確かに居心地は良くない。
 きっとこのまま布団に顔をうずめればべっとりと汚れてしまうに違いない。
 大野は、かつて自分が女でなくて良かったと思う理由の一つに「化粧しなくていいから」というのがあったのを思い出していた。
 椅子にでも・・・座りにくいよな・・・。
 どんな椅子であっても、自分の身体を中心に直径1メートル範囲内のものをなぎ倒すかの様なスカートである。これ以上日常生活に向かない衣装も無いだろう。
 ・・・そうなるとぼさっと突っ立っているしか無い。
 もう外はかなり明るかった。見ると、時間は7時になろうとしている。
 朝のワイドショーがやってるな。・・・もっとも、今日が何曜日なのかもわからないんだけどね。
「おつかれでーす」
 もう出てきた。白鳥さん。
 その時だった。


139(2003.1.25.)
「ん・・・ん・・・」

 城さんが目を覚ましたみたいだった。
 そういえば・・・城さんってどんな格好で寝たんだろう。
 どんな格好も何も昨日のロングスカートに決まってるけど。
 勿論今はふともももまぶしい女子高生の制服姿なのだが。
「ふう・・・」
 寝乱れた髪までが何だか可愛らしい。
 他の面々がOLの制服、バレリーナのチュチュ、ウェディングドレスと“大人の女性向け”衣装に変えられてしまっているせいなのか、その肉体までも20代程度の女になっているのに比べて、女子高生スタイルにされた城は、肉体的にも17〜18歳程度に見える。
「おはようございます」
 よっこいしょ、とばかりに上半身を起こす女子高生。
 目が上下に張り付くようだった。寝起きは良くなかったみたいである。
「おはよう」
 ・・・何だか本当に年下の女の子に声を掛けるといった風情のOL姿の白鳥さん。長い髪のOL姿もなかなかにハマッているじゃないか。
「あ、どーも・・・」
 瞳が開ききっていないものの、すぐに異常には気付いたみたいだった。
「・・・???ん?」
「あ、あの・・・」
 大野は説明したものかどうか少し迷った。
 昨日の晩、確かに着替えたはずなのに、朝起きたら元の女の服に変わっていたんだ、と説明するべきなのか。すぐに分かる事なのだが。
 とはいえ、この女子高生は元男だったくせに女物を買って来ていた。
「・・・?制服・・・?」
「ええ、そうなんですよ」
 白鳥が念を押した。
「じゃあその・・・大野さん?」
 こっちに問うてくる城。
「まあ・・・その・・・」
 こちとらとりわけ、少なくとも男としては“みっともない”格好をしている。ちょっと申し訳無さそうに縮こまる。
 その瞬間、城は火がついた様に爆笑し始めた。


140(2003.1.26.)
 あーひゃひゃ!あーひゃひゃ!と。
 早朝という訳でも無いが、周囲の部屋の迷惑を考えてしまうほどの豪快な笑いっぷりだった。
「ひーひー!似合ってる!似合ってるよ大野さん!」

 といってまたお腹を抱えてあーひゃひゃ!と笑っている。本当におかしそうだ。
「そ、そんなにおかしいかな・・・」
 思わず声に出していた。
 おかしいに決まっている。バレリーナの格好だぞ!?
 自分の身体を見下ろした。
 ・・・。
 やっぱりこりゃ滑稽だ。
 何故か頬がほころんだ。
「やっぱり?」
 といって、ほんの少しだけ軽くポーズをとる。
 また爆笑する城。
 3人で軽く笑いあった。
「てゆーか何で交換してんの?わざわざ着替えたの?」
 表現が難しいのだが、如何にも女子高生の声だった。発声の仕方そのものが違う感じである。英語を覚えた日本人の無理をした発音では無く、生まれつき女声を操ってきた人が、リラックスして話している風に聞こえた。
「まあ、座りましょう」
 OLが、白鳥さんが言った。