不条理劇場 9

「四人の女」
連載第10回(にあたる部分以降)


作・真城 悠

この小説は「フィクション執筆掲示板」にて書かれたものです

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141(2003.1.27.)
「冷たいコーヒーしか無いですけど」
「あ、いいですよ。お構いなく」
「あたしは下さい」
 大野は先ほどの白鳥と同じ体制になっていた。
 つまりはバレリーナのチュチュ姿で毛布を羽織っていたのである。
 城は白鳥さんに渡された缶コーヒーを早速開けてぐびぐび飲み始める。
「まあその・・・こういうことになってました」
 そう報告するしか無い。白鳥が努めて面白そうに言った。
「みたいですね」
 城はベッドの上にぺたん、と“女の子座り”している。
 しばし沈黙。
「あの・・・」
 バレリーナが口を開いた。
「何です?」
「昨日は・・・どうしました?」
 大野が発した質問はそれほど深い意味は無かった。
 自分は昨日の晩、結局半裸にブラウスを引っ掛けただけで寝てしまった。この女の身体になってから入浴もしていないし、実質的に何もしていないに等しい。
 そして・・・昨日の晩の騒動である。
 危く襲われそうに・・・。
 これは伝えなくてはならない。
 もう日も高いし、直接的な危機は去ったと考えていいとは思うが、看過していい問題とも思えない。


142(2003.1.28.)
「何って別に・・・ねえ」
 城さんが答える。
 それにしても制服似合ってるよなあ・・・違和感無いし。
「そちらでは何かあったんですか?」
「いえ別に・・・」
「そうそう、花嫁さん荒れたりしてました?」
「あ・・・深夜に帰ってきました」
「やっぱり帰ってきたんだ・・・」
 露骨に残念そうな顔をする城さん。正直な人である。まあ確かに“花嫁さん”たちとこちらの仲は冷え切っているのだが。
「昨日の晩は特に何もしてません。運転で疲れてたんで・・・すぐに寝ちゃいました」
「え?じゃあお風呂入ったりしてないんですか?」
 さも当たり前の様に言う。
「まあその・・・城さんは入ったんですか?」
「ええ。背中流しっこしました」
「・・・ええっ!?」
 素っ頓狂な声を上げてしまった。
「あはは・・・まあね」
 白鳥さんがOLルックで相槌を打つ。
「いやあの・・・その・・・ふ、二人で?」
「ええ。やっぱお風呂には入らないと」


143(2003.1.29.)
 大野には分からなかった。
 そりゃ確かに女の身体になってしまったことは直視しなくてはならない現実である。入浴し、その現実を確かめるのもいいだろう。どんなに恥ずかしがっていてもいつかはやらなくてはならないことだ。
 だが、「元男」で、現在は女の身体になってしまっている二人の人間が一緒に裸体をさらしながら入浴するという神経が分からない。想像することも出来ない。
 同時に白鳥さんの申し出も少しは理解出来た気がした。
 その人が衣装交換を申し出て来たのなら、“ああ、そういうこともあるか”という気がする。
「まあ、ともかくこれからどうするかです」
 白鳥さんの声である。
 また置いてけぼりのまま現実が進行し様としている。
「戻っちゃったんですよね?」
「はい」
「お財布とかも?」
「いえ、離しておいたのでそれは無事です」
「着てた服は?」
 ひょい、と肩を上げてアメリカンな否定のゼスチャーをするOL姿の白鳥さん。
「全部煙みたいに」
「あーあー・・・結構お気に入りだったのに」
 そういう問題ではないだろう。


144(2003.1.30.)
「じゃあ、買いなおしですね」

 笑顔で城さんは言った。
 その瞬間に電流が走った。
 そうだ!・・・どうして思いつかなかったんだろう。
 朝起きたらまたOLの制服を着ていたというこの現実から、すっかり「どんなに着替えても何時の間にか元の服装にされる体質になってしまった」決め付けていたのだが、そうでは無いかも知れないではないか!
 この現象の最初がそうである様に、この朝にだけ一回だけ起こった現象なのかも知れないではないか!
 白鳥さんと目が合った。
 白鳥さんも同じことを考えていたみたいだった。
 そう考えると、何だか希望も湧いてくる。
 というより、もうそれに違いないと思い込んでいた。
 そうだ!きっとそうだよ。
「さっき大野さんともちょっと話したんですけど」
「はい」
「万が一のことも考えて、やっぱり車で移動した方がいいと思うんですよ」
「あー、車で」
「幸い資金は芳醇ですし、何とかなると思うんです。まあ、帰り着いてからの事はその時考えるということで」
「あたしはそれでいいですよ」
 確かに聞こえた。
 “あたし”と。


145(2003.1.31.)
「今って“花嫁さん”はどうしてるんです?」

「あ、そうそう。大野さん、どうでした?」
 ふいに思い出した。
「あの人も元に戻ってました」
「それはウェディングドレスにってことですか?」
 城さんが聞く。
「はい・・・。それで、全部戻ってるんですよ!イヤリングとかネックレスとか」
 ちょっと間が開く。
「凄い!それなら資金がまた手に入るじゃないですか!」
「あはは・・・まあ、そう・・・かな」
 実はそれは少し考えていた。もしも、毎日着ているものが復活するというのなら、一日20万円なりの収入ということになる。「四人の女」が生きていくには充分過ぎるほどの資金だ。
「そう上手くはいかないでしょうね」
 知的なOLが釘を刺す。
「この現象が続けばそうかもしれません。でもその保証は無いです」
 大野は頭の中で計算していた。
 仮に1日20万円の収入という話が成立するのなら・・・月に600万円!?
 四人それぞれがいい所のマンション借りても問題なくやっていける資金だ。いや、ホテル住まいだって可能なんじゃないだろうか。
 今のままでは戸籍も不一致だからマトモな物件は買えないし、借りることも出来ないかも知れない。でもホテル住まいなら出来るし・・・。
 実は詰まるところ一番の問題は資金だったのである。


146(2003.2.1.)
 
現実問題として、お金さえあればなんとかなる。何とかなるではないか。
 大野は滅多にやったことの無い大きな額の計算を始めていた。
 実際問題フリーターとして稼いでいた金は月に10万円そこそこだ。都合よく考えて20万円を四等分して1人5万円としたら月に・・・えーと30倍するんだから3×5=15・・・150万円!?
 これは大野の年収に相当する。
 えーとえーと・・・大野の妄想は更に続く。
 仮にその・・・“一生遊んで暮らす”為には幾ら必要なんだ?
 月収が年収に相当する訳だから、この生活が1年続いたとしたら12年分の生活資金が溜まることになる。24、36、48、60・・・今の俺が26だから、86歳まで生きたとしてあと5年間待てばもう一生遊んで暮らせる・・・。
 いや、別に遊んで暮らす必要は無い。仕事したっていい。でも“安心して生きられる”これが大きい。
 ・・・何とかなるか?
 いや、最大の問題がある。
 もしも“花嫁さん”役が白鳥さんだったとしたらそれももしかしたら可能かも知れない。いや、それどころかそれを元手に商売始めて大成功してしまいそうな勢いすらある。
 だが、実際にはそうでは無いのである。
 あの“花嫁さん”である。
 理由は分からないが、徹底的に協調性が無く、ことごとく対立、反発してきたあの“花嫁さん”なのだ。
 1日20万円を換金してみんなに提供してくれ、なんて頼んで快諾してくれるとは全く思えない。
「大野さん」
「はいっ!?」
「ひょっとして毎日換金することを考えてます?」


147(2003.2.2.)
「あ、いやその・・・」
 図星だった。が、今度は驚かない。いみじくも白鳥が言った様に、この状況下にあってそこに考えが及ぶのはごく自然なことだからだ。
「難しいと思いますよ」
「やっぱりそうですかね?」
「実際やってみないと分かりませんけど、少なくとも質屋に持っていって換金は毎回ともなると」
「場所を変えれば・・・どうですかね?1日の生活費としては充分なんだし」
「車で旅を続けると?」
「毎日売れなくても、20万円あれば四人の生活費としても数日は持ちますよね?質屋のありそうな町にたどり着いたらそれまでの数日分をまとめて売れば」
「なんだか“花嫁さん”が乳牛か卵を産む鶏みたいですね」
 くすり、と笑った。
 でも、実際そうじゃないか。
 大野は足りない頭で一生懸命考える。だが、この際なので口に出してみる事にした。
「その・・・例えば一週間質屋にたどり着けなかったとしますよね」
「やっぱり考えるんですか・・・」
「え?何の話ですか?」
 城さんはこの現象が毎日続くとは思っていないので、この論争に付いて来ていない。だが、ここで話の腰を折りたくないので、城さんには悪いけどそのまま続ける。
「そうなるとその・・・140万円分の宝石・貴金属類が溜まりますよね」
「まあ、そうかも知れません」
「それだけの額面の宝石を換金してくれる質屋ってそうそうあるんですかね?」
「その程度の現金は用意してあると思いますよ。まあ・・・物が物ですから盗品と疑われないようにして・・・」
「大丈夫ですよ。みんな美人なんだし、馬鹿な男から貢いでもらったことにして」
「大野さんもね」
 にこりと微笑むOL姿の白鳥さん。
 突然自分が今バレリーナになっていることを思い出す大野。
「もお!だから何の話なんですかってば!」
 城さんがプンプン怒り出してしまった。
 白鳥さんがかいつまんで説明している。
 その間にも大野はまた頭の中で考えを巡らせていた。
 ・・・いずれにしても花嫁さんは説得しなくてはならない。それだけは間違い無いんだ・・・。


148(2003.2.3.)
「はあ、なるほどねえ」

 しきりに感心している城さん。
 大野はほんの少しだけこの城さんに違和感を感じていた。
 この人って・・・本当に元・男なんだろうか?
 幾らなんでもちょっと挙動が女の子しすぎているんじゃ無いだろうか。昨日までの言動から考えると高校生以上の学生か、社会人には感じた。だが、今のこの女子高生と同じ口調で喋っていた元・男というんは想像しにくい。
「まあ、夢は広がる訳ですが、いずれにせよ今夜の心配からですね」
「花嫁さんってもう別行動を取るって言ってるんですよね?」
「ええ」
 大野が口を挟む。
「でも・・・多分今は無理だと思いますよ」
「どうしてです?」
 これは城。
「あの方、今ウェディングドレスですから。表には出られないと思います」
「大野さんと同じくね」
 また気になることを言う白鳥。
「あの人のことだから構わず出ちゃうかもしれないよ。別に花嫁衣裳だからって逮捕されるわけでもなし」
 まあ、確かにその可能性はゼロでは無い。
「・・・何か変な感じがしませんか?」
 突然白鳥さんが言った。
「・・・え?」
 大野が周囲を見回す。
 確かに何か違和感を感じる。だが、それが何なのか分からなかった。
 すっくと立ち上がる白鳥さん。ミニのタイトスカートが張り詰め、実に格好いい。
「・・・大野さん。花嫁さんは元の姿に戻ってたって言いましたよね」
「はい」
「鍵貸してください」
「え?何で・・・」
「早く!もしかしたらもしかします!」
 その時になって大野はやっとその可能性に思い当たった。
「ポケットです!」
 自分のベストのポケットをポンポン、と叩く白鳥。
 カードキーを引き抜くと脱兎の如く出口に向かって走っていた。


149(2003.2.4.)
 大野は肩から掛けていた毛布を床に落とした。

 バレリーナの肌が露になる。
 構わずOLのお尻を追いかけた。
 目の前でドアが開き、人口光に照らされた廊下が見える。
 ・・・ここで出てドアが閉まっちゃったら、オートロックで戻れなくなるのかな?と小さなことが気になった。
 同時に嫌な予感が全身を貫いていた。
 しまった・・・。
 どうしてその可能性に思い当たらなかったんだろう。
 大野は自分を責めた。
 あの部屋は昨日の晩に何者かに襲われた部屋じゃ無いか!そんな所に若い女性を1人っきりで置きっ放しにしてしまったのだ!
 ものの十数分であるとは言え、迂闊だった。
 でもまあ、あの“花嫁さん”である。今もって本名すら不明で、何かというとこちらと対立しているあの人だ。別に“どうなってもいい”なんて思わないけど、正直声を掛けるのが億劫だった。
 何と言っても、女になってしまった自分の身体に最も嫌悪感を感じているのはあの人だった。
 白鳥さんはあの通り冷静だし、自分は・・・まあ何とかやっている。城さんに至っては楽しんでいる様にすら見える。だが、花嫁さんはことごとく自分の肉体を否定した。
 そうそう、昨日の夜に1人で部屋に戻ってきた花嫁さんは自分・・・大野・・・がいないことを確認して荒れ狂っていた。
 その時にも思ったんだが、あれが正常な男子が原因不明で女の肉体に変貌させられた時の反応なのかも知れない。
 そんな花嫁さんを、またウェディングドレス姿に戻っている状態で起こせるか?
 起こせない。自分には荷が重い。
 それもあって白鳥さんたちの部屋に逃げてきたのだ。
 でも・・・軽率な行動であたのは確かだ。
 大野は後先考えるのを止めて廊下に飛び出した。


150(2003.2.5.)
 部屋の堺をまたぐ瞬間に、一瞬ためらいがあった。

 ここを出れば、そこは公共の道路と変わらない。
 よく日本人観光客が浴衣姿で海外のホテルの廊下を歩いて顰蹙を買っているという。日本ならそれも通るのだろうが、海外では浴衣はもう部屋着である。寝間着で道路を歩くような物だ。
 自分は今バレリーナの格好をしているのである。
 一応肉体は女だから“女装した男”にはならないが、珍妙な変装をした変な女ではある。もしもそれをホテルの人間や他のお客に見られたら・・・。
 大野は漸く白鳥さんや花嫁さんがこれまでどういう気持ちで過ごしてきたかを少し知った気がした。ひょっとしてその為に白鳥さんは衣装交換を持ち出したのだろうか・・・。
 とにかく、もうこうなりゃヤケである。
 構わず隣の部屋の前でカードキーを使っている早朝のホテルの廊下のOLの元に駆け寄る。
 すぐにドアが開いた。
 驚いた。
 なにやら強烈な匂いが噴出してくる。
 そしてもうもうと白煙が上がっている。
「・・・っ!これは?」
「入ります!」
 OLとバレリーナの凸凹コンビは後ろ手にドアを閉めようとした。
「あ、あたしも!」
 城さんが飛び込んでくる。
 ええい、構っていられるか!
 もう白鳥さんはバスルームに飛び込んでいる。
 形のいいお尻がタイトスカートによって浮き出しているのが一瞬だけ見える。
 ・・・バスルーム?どういうことだ?
 続くバレリーナ。
 バスルームには電気が付いていた。
「大野さん!」
 ほぼ初めて白鳥の上ずった声を聞いた。
「どうしました!?」
 飛び込むのと同時だった。
 白かった。
 バスルーム内一杯に湯気が充満している。
 そして独特のなんと言うか鉄臭い様な匂いともう1つ何かの匂いが混合した匂いが立ち込めていた。
 その湯気の中に純白のドレスがあった。そして・・・ワンポイントが付属していた。
「白鳥さん・・・花嫁さんですよね?」
 頷くのが何とか湯気の中に確認出来た。
「手首を切っています」
 その声は冷静だった。


151(2003.2.6.)
 頭の中が真っ白になった。

 え?何?何だって?手首・・・?リストカット?
 別の意味で最悪の結末だった。
「運びます」
 きゅっきゅっという音と共にさっきから盛んに流れていた水道が止まった。
 そうなのだ、先ほどから意識をかき乱していたのはこの水道の音だったのだ。
「大野さん!換気扇回してください!」
「は、はい!」
 後ろに下がろうとしてドシン、と城さんとぶつかってしまう。
「あわっ!」
 こちとらトゥシューズなのだ。思いっきり滑りそうになる。
「どいて!」
 思わず声を荒げてしまう大野。
 どこだ・・・!?どこに換気扇のスイッチなんてあるんだ?
 また俺は要領の悪さを出してしまうのか?
 あった!それほど広くないユニットバスの入り口にそれはあった。
 やけに大きく聞こえる“バチン!”という音と共に轟音が響いて湯気が吸い出され始める。
「やった・・・」
 小さくつぶやいてしまう大野。
「白鳥さん!どうします!?」
 それは『救急車を呼びますか?』という間接的な問いだった。
「とにかく運びます」
 そうだ、鉄臭い匂いは・・・血の匂いだったのだ。


152(2003.2.7.)
 
まさに戦場の様な騒ぎだった。
 少なくとも部屋の中では。
 結局、活動的な格好に一番かけ離れた大野が作業から離れることになってしまった。
 OLと女子高生が、大きなドレスを抱えて花嫁さんを一緒に担ぎ上げ、部屋のベッドに寝かせた。
 風呂桶から流れ出していた水道水によってぐしょ濡れになっていたドレスは、水を吸い込んで倍近い重さになっていた。
 その上意識を失っている人間というのはぐにゃぐにゃになっていて実際よりも数割増で重く感じる。
 一緒にぐしょぐしょになりながらベッドまで運んだ頃には全員疲労困憊だった。
 廊下は部屋の中の廊下は水を撒いたようになっていた。今もドレスのスカートからはぽたぽたとお湯がしたたっている。
「白鳥さん・・・」
 生きてるんですか?という問いだった。
 白鳥は直接は答えずにまずは城に向かって言った。
「城さん・・・ちょっと見てて貰えますか?」
「はい」
 神妙な顔だった。
 よく見るとそこらじゅうにウェディングヴェールやブーケが粉々になって散乱している。隣でこんな惨劇が起こっていたのに気が付かなかったというのは無念である。
「大野さん・・・ちょっと・・・」
「はい・・・」
 ぴちゃぴちゃと音がする様だった。
 OLに先導されるように入り口付近の廊下の突き当たりまで歩いて行く。
 何ともいえない匂いはまだ消えていない。それがドレスそのものが発している匂いであることにやっと気付いていた。
 何しろしがないフリーター生活にウェディングドレスなんてものは最も縁遠いと言って構わないだろう。その匂いなんて知るはずも無い。結婚したことのある人間だって覚えちゃいないだろう。
「白鳥・・・さん?」
「生きてますよ」
 白鳥は先に結論を言った。


153(2003.2.8.)
「生きて・・・るんですか?」

「ええ」
 大野は何とも複雑な気分だった。
 こんな緊迫した場面で、自分の身体から広がったチュチュのスカートが目に入る。何と言うか、悪気は無いのだが、何ともそぐわない。下手をするとふざけているみたいな気分になってしまう。
 だが、会話は関係なく進行する。
「でも・・・手首を切ってるんでしょ?」
「赤血球はご存知で?」
「いやその・・・」
「血液ってのは空気中では勝手に止まるんですよ。どんなに大きな血管を切っても」
「でも・・・」
「確かにそういう知識はあったんでしょうね。だからお風呂場を選んだ」
 そういえばドラマなんかで手首を切って自殺する人はよくお風呂場で自殺してる。大野はその理由を考えた事は無かった。
「水に溶かすんです。切った手首を水に漬けておけば固まる事無く致死量の出血が出来るかもしれません」
 そうか、そういうことだったのか。
「そこまで知っていたのはいいんですが最後でツメを誤りましたね」
「はあ・・・」
 もう聞いているしかない。
「残念ながらお湯には溶けないんですよ。やっぱり固まってしまいます」
 そうか!だから自殺に失敗・・・。そして部屋中がこんな湯気だらけに・・・。
「じゃあ・・・大丈夫なんですね?」
「全く問題ありません。そもそもためらい傷程度ですし」
 なんのこっちゃ・・・全く迷惑な・・・。
「迷惑な、と思ってるでしょ?」
「・・・」
 大野は否定しなかった。うんざりだった。


154(2003.2.9.)
「・・・まあ・・・」

「無理しなくてもいいですよ」
「どうするんですかこれから?」
「さあ、何とも」
 またアメリカンなジェスチャーの白鳥。
「一説では自殺から生還した人は非常にピュアになるそうですから、扱いやすくなるかも知れません」
 当てにならない話だ。
「じゃあ、救急車とかはいいですね」
「騒がない方がいいでしょうね。それに・・・」
「“それに”・・・何です?」
「一種のアドバンテージが取れるかも知れませんよ」
「通報しなかったって事にですか?」
「大野さん、冷静に考えて救急車を呼んだらどうなると思います?」
 ・・・そうか、確かにそうだ。
 今の自分たちは一種のお尋ね者である。所持金はあるものの身分を証明することが出来ない。さっきまでは命あってのモノダネとばかりに焦っていたが、命に別状が無いと分かれば・・・。
「これもまた聞きかじりですけどね」
 また白鳥さんが別の話を始めた。
「何です?」
「本当に自殺したいのなら首吊りを選ぶらしいですよ」
「手首は違うんですか?」
「死ぬのに時間がかかりますからね。あくまで一般論ですが、手首を切っての自殺は本当に死にたいのでは無くて、発見して貰って騒いで貰うのが目的の場合が多い・・・とか」
 ・・・ありそうな話だと思った。
「じゃあ、別の事を相談しましょうか」
 白鳥はこちらの同意も得ずに部屋の方に向かって歩き出した。


155(2003.2.10.)
「どうも、城さん」

「あ、どーも」
「気が付きました?」
「まだですね」
「気絶してるんですか?」
 狸寝入りじゃねーのか?
 もうホトホト懲りていた。
 やっぱり駄目だ。この人とは付き合えない。何とかして花嫁さんに頼らない様にしてこの旅行を続けるしか無い。
 ふと見ると、髪を振り乱してまさしくザンバラになっている。
 ・・・イヤリングとネックレスは無いよな。
 卑しい根性だけども、最後の奉公をして貰えないかな?と思ったのだ。


156(2003.2.11.)
「貴金属ですか?」

 全てを察したかのように、そして無邪気に城さんが言った。
「・・・はい」
「ありますよ」
 そう言って手のひらを広げると、そこには昨日質屋に売っぱらったイヤリングにネックレス、婚約指輪の一式が揃っている。
「拾い集めたんです」
「はあ・・・」
 部屋を見回す大野。
 色々なものが破壊され、その残骸が散乱している。この中にそれまであったってのか。相当ヤケクソになっていたのだろう。
「ネックレス切れちゃってますけどね」
 ひょい、とつまみあげる。
「わっ!ホントだ」
 引きちぎったのだろう。全く、ヒドイ話である。
「とりあえず着替えを買ってきます」
 白鳥さんがバスタオルでOLの制服を拭きながら言う。勿論それでもぐっしょり濡れてしまった制服が乾く筈も無い。
「そうですね・・・お願いします」
 大野も念を押す。
 何しろこちとらバレリーナなのである。今だって部屋中に立ちこめた水気が冷たさに変わってきている。剥き出しの肩や腕はこのスタイルになった瞬間から鳥肌が立ちっぱなしである。
 着替えを買って来てもらわなくてはにっちもさっちも行かない。


157(2003.2.12.)
「あたしも行っていいですか?」
 城さんである。
 もう本当に女の子にしか見えない。
「風邪引きますよ」
 城さんの方もぐっしょり濡れてしまっているのである。全くヒドイ目に遭った。
「車に戻ればいいじゃないですか」
「「あっ!」」
 あの冷静な白鳥さんとほぼ同時に叫んでいた。
 そうなのだ。
 車の中には脱ぎ捨てられた最初のOLの制服とブレザー、そしてバレリーナのチュチュにウェディングドレスまでが置きっぱなしになっているのである。
 もしも、昨日着替えた服が今のものに変わっていたとするならば・・・可能性はある。
 そう考えると益々分からなくなる。
 一体この現象は何なのか?
 身につけた服をそれぞれの衣装に変換する現象なのか?
 自分のOLの制服なんてのはそれほどでも無いだろうが、花嫁さんのウェディングドレスなんてかなり効率のいい変換機では無いだろうか?ごく稀に見聞きするウェディングドレスなんてレンタル代40万だ50万だなんて話である。
 ・・・うーん、つくづく金になる体質である。
「とにかく駐車場に行ってみます」
「お願いします」
 とは言っても残っているのは元のコスチュームである。この上ウェディングドレスを着て花嫁修業でも無いだろう。
「じゃあ城さんも行きましょう」
「はい」
「あ・・・」
 声を出しかけた。
「すぐに戻ります。・・・大野さん、またご衣裳借りますね」
「あ・・・はい」
 そうか、濡れたOLの制服を濡れて無いものと交換して街中に着替えを買いに繰り出そうという訳か。
「あたしのと交換しません?」
「遠慮します」
 にっこりと笑顔で受け流す白鳥さん。
 思わずパンツが見えそうなミニスカートの制服に身を包んだ白鳥さんを想像してしまった。
 ・・・何とも。


158(2003.2.13.)
 それはそれで可愛いんだけど、なんだか風俗店みたいである。
 やっぱりどんなに美人でも、年齢のイメージが付いた制服は辛い・・・。
 それじゃあ自分なら・・・?
 男の時の冴えない姿が浮かぶが、必死に打ち消して今の若い女の姿で制服姿に変換してみる。
 ・・・結構可愛いじゃん。
 ち、違う違ーう!
 ・・・でも、折角なら後で城さんに制服貸して貰おうかな・・・。今なら身体は女だし・・・ぶるんぶるん頭を振る。
「じゃ・・・」
「またねー」
 気が付くとOLと女子高生、白鳥さんと城さんは部屋にバレリーナと花嫁を残して出て行ってしまっていた。
「・・・」
 言いたいことは色々あったのだが、バレリーナ姿ではどうしようもない。フロントも突破出来ないだろう。まあ、やってやれなくは無いんだろうが、ここで目立ちたくない。
 それと・・・何と言うか上手く言えないんだけど、あの2人・・・白鳥さんと城さんってウマが合っているみたいに見えるのだ。
 こっちは姿かたちは若い女だけど、口下手だし性格自体はそれほど・・・いや全く変わっていない。そのどん臭さに少々辟易していても無理は無い。
 いや、止めようそんなこと考えるの。
 折角別人になったのである。人生をリセットした気分で頑張るしか無いでは無いか。
 それは空元気だと分かっていた。それほど何も築いてきた訳じゃ無いしがないプータローのお気楽な妄想かも知れない。
 何でもいいや、もう。
 そうだなあ・・・。
 大野は現実面に思考を戻した。


159(2003.2.14.)
 
廊下を出てフロントから鍵を預かり、車に入って・・・ここまでそうだなあ15分とする。でもって中で着替える。
 何しろ背の高いRVとは言え車内だから苦戦するだろう。後部座席にはカーテンがあったから締め切って着替え・・・これで15分としよう。
 下着類はそのままだから濡れたままだけど、上着まで濡れているよりはいい。
 そこから車を駆って市内に。
 九州ってのは本当に都会部分が小さい。駅のすぐそば位しかない。
 車で繁華街まで辿り付くのに・・・今日って平日なんだろうか?・・・曜日の感覚が無い・・・まあ15分とする。さっきから15分ばっかりだけど。
 でもって適当な服を見繕うのに更に15分。ここまででもう1時間だ。そこから帰ってくるとして・・・ハプニングまで予期して30分見越すと・・・1時間半か。結構あるな。
 時計を見る。
 カーテンを締め切っているので室内はどんよりと暗いのだが、時刻は午前9時になっていた。
 今のスケジュールで最短で帰ってきたとして10時半・・・。
 確認してなかったけど、チェックアウトってそれくらいじゃないのか?
 でも12時ってところも聞いたことがあるし・・・。
 待てよ!
 バレリーナたる大野はすっくと立ち上がった。
 スカートが先端ほど大きくふわんふわんと揺れる。


160(2003.2.15.)
 
とてとてと部屋を横切って外に向かう。
 その度に真横に広がったスカートがふわふわと揺れる。
 さぞかし見た目は映えることだろう。
 バレエの技術などから数万年かけ離れた大野のドタ足でさえこのスカートの挙動によって羽の様な軽さに感じるのだ。
 大野は自分がバレリーナ姿であることをなるべく考えない様に勤めたが、こうして移動してしまうとどうしてもそれが顕著に感じられる。
 換気扇の奮闘虚しくまだ室内には湯気が残っている。
 大野だって全く濡れていない訳では無かった。
 歩くだに床がぴちゃぴちゃと音を立てる。
 全くよく火災警報装置がならなかったものである。
 トゥシューズを通して水が浸透してくる。
 靴下では無いが、皮膚の肌色がうっすらと透けるバレエタイツを履いている・・・スカートに邪魔されて大野の主観視点からは全く見えないのだが・・・のだ。それがトゥシューズのなかでびちゃびちゃに濡れて気持ち悪い。
 とにかく、誰も入ってこない様にしなくてはならない。
 もういい時間である。巡回の布団替え係の人がやってきたらコトである。
 ドアを開けたらバレリーナのコスプレをした女と花嫁衣裳を振り乱した女が部屋じゅをびしょびしょにしていた・・・ってんじゃ申し開きのしようもありゃしない。
 そもそもこの部屋の有様をどうしろというのか。
 それなりの資金はあるものの、本格的な弁償なんて話になったらお手上げである。季節が冬なのが幸いした。
 うっそうとした夏だったらたちまち室内のカーペットが腐り始めてそりゃヒドイことになっていただろう。
 とにかく・・・「寝ているので入らないで下さい」という札があったはずだ。
 それを立てかけておく必要がある。
 隣の部屋のことは覚えていないが、あちらは現時点では無人である。とにかくこのチンドン屋みたいな2人の女のいる部屋を何とかしなくてはならない。